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2007年 7月1日発行 No.469
失われたものを捜し 見出す神
金田 佐久子
祈り待ち望んでいた西川口教会ファミリーキャンプが、いよいよ今月15日・16日に開かれます。今年の主題聖句がルカによる福音書から与えられ、主日礼拝(賛美・一般礼拝)でルカ福音書から学んでいます。今年度の教会の主題は「神の国の喜びに生きる主イエスの弟子の共同体」です。ファミリーキャンプでは、今年度教会が大切にして掲げている主題を深めたい、神の国の喜びを知りたい、そう思い巡らす中で、ルカ福音書15章をとり上げようと示されました。さまざまな事情でキャンプに行けない方がおられますが、場所は異なっても、共に、御言葉に与ることができますように。
ルカによる福音書15章の書き出しはこうです。徴税人や罪人が皆、話を聞こうとして主イエスに近寄ってきました。その様子を見ていたファリサイ派の人々や律法学者たちは不平を言いだしました。そこで、主イエスは三つのたとえを話されたのです。新共同訳聖書の小見出しのとおり「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、そして「放蕩息子」のたとえです。
主イエスがこのたとえを通して伝えようとされたことは何でしょうか。もちろん、たくさんの気づきがこれらから与えられますけれども、一言でいえば、父なる神自ら、見失われたあなたを(わたしを)捜しに出ていかれる御方であるということです。主イエスはたとえを聞く者たちにとって、神がどのような御方であるかを示されたのです。
神は、見失われた一匹の羊を見つけ出すまで捜しに出て行く羊飼いでいらっしゃる(4〜7節)。神は、失くした銀貨一枚を、ともし火をつけて家中を掃いて、見つけるまで念を入れて捜し回る女でいらっしゃる(8〜10節)。神は、自分の好きなように生きて身上を食いつぶしてしまった子どもをじっと待ち、迎えに駆け出し、抱きしめて、最上のものでもてなしてくださる父でいらっしゃる(20節以下)。弟のために怒って家に入ろうとしなかった兄息子のために、家から出てきてなだめて、共に祝うようにと招き入れる父でもいらっしゃる。神は天でじっと座っておられるのではなく、見失ったあなたを(わたしを)見出したいと願い、じっとしておれず、捜しに出て行かれるほどに愛に溢れる御方だということです。
神に見つけていただいたとき何が起こるのでしょうか。「見失った羊」のたとえに、羊が悔いたとか、戻ろうと思ったとは書いてありません。ここには見失った羊を見つけた羊飼いの喜びだけがあります。「無くした銀貨」のたとえでも、銀貨を見つけた女の喜びだけがあります。「放蕩息子」のたとえでも、遠い国に旅立ち失われていた息子が家に帰ってきた父の喜びだけが示されています。あなたを(わたしを)見出したとき、父なる神が大いに喜ばれるということ。わたしたちが父の家に迎えられた出来事そのものが、悔い改めである、ということです。神の無条件の愛が今、差し出されています。
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