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2007年 8月1日発行 No.470 

父なる神の愛に目覚める

                            金田 佐久子

 今月は西川口教会ファミリーキャンプの特集号で、参加者の感想文が寄せられています。キャンプではルカによる福音書第15章を取り上げました。ここで再び主イエスが語られた「放蕩息子」のたとえ(15章11節以下)を振り返ってみます。

 ある人にふたりの息子がいました。ある時、弟息子が父親に言いました。「お父さんの死んだあとに、わたしのものとなるはずの財産を分けてください。」父親は息子の思うようにさせました。息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしました。彼が何もかも使い果たしたとき、ひどい飢饉が起こりました。何とかして豚の世話の仕事につきましたが、彼のことを気にかけてくれる人は誰もいませんでした。弟息子は自分のしたことが間違っていたと気づきました。「お父さんのところに帰ろう。そして謝ろう。雇い人として働かせてもらおう」。そう決心し、父親のもとに向かいました。息子が父親の家が見える場所まで来ると、自分に向かって走り出す人が見えました。父親でした。父親は走り寄ると息子を抱きしめ、口づけをしました。父親は息子の言葉を最後まで言わせず、僕たちを呼びました。一番良い服、指輪、履物を持ってこさせ、肥えた子牛を料理させて、祝宴を始めました。
 そこへ、上の息子が畑の仕事からもどってきました。音楽や踊りのざわめきに気づいた息子は、僕の一人に何事かと尋ねました。息子は弟が戻ってきてそのための祝宴と知り、怒って家に入ろうとしませんでした。父親は出てきて兄息子をなだめましたが、彼は不満を父親にぶつけました。父親は兄息子に言いました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。けれども、お前の弟は死んでいたのに生き返ったのだ。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

 お話や物語を聞くとき、登場人物の誰かに感情移入するのはよくあります。このたとえでも、ある方は弟息子に共感し「自分も似たような体験をしたけれども、神様に立ち帰ることができた」と思うかもしれません。またある方は兄息子に共感し、「まじめに懸命に生きてきた。でも、自由奔放に生きる人がうらやましかった」と、心を探られるかもしれません。自分の中に弟息子も兄息子もいる、と思える人もいるでしょう。
 弟息子や兄息子に自分の身を置くのは決して難しくありません。しかし、父親に感情移入できる人はどれほどいるでしょうか。わたしが父親の思いになってこのたとえを読み直そうとすると、どうなるでしょう。まず自分の財産を息子に分けてしまうことはしないでしょう。息子が放蕩の限りを尽くして帰ってきたとき、温かく迎えることはないでしょう。弟息子が帰るときに考えたように、彼をしばらくは雇い人として過ごさせるかもしれません・・・。父親の思いを理解するのは非常に困難です。それほどまでに父親のしたことは、考えられないこと、弟息子には破格のもてなしであって、兄息子にとっては筋の通らないことでした。
 このたとえを語られたのは主イエスです。主イエスは、人の思い及ばない、この上ない父なる神の愛を知らせてくださいました。弟息子の過ちも兄息子の怒りも十字架で取り除き、わたしたちが父なる神の懐に、まっすぐに飛び込めるようにしてくださったのです。

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