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2007年 10月1日発行 No.472
祝福される教会 (2)
金田 佐久子
実りの秋を迎え、伝道の実を刈り取らせてくださいと祈る日々です。
本年8月の第54回こころの友伝道全国大会の特別講演より、今月は、講師の山北宣久先生(東京・聖ヶ丘教会牧師)の第二講演「喜びに満ちた教会生活」から分かち合います。
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祝福とは
祝福という言葉は、ヘブライ語ではベラカーといい、相手にひざまずくという意味です。相手を本当に恭しく心から受け入れる、肯定する。祝福されるというのは、神がわたしたちにひざまずいてまで肯定してくれること。ヨハネ福音書13章で、主イエスは弟子たちの足を洗ってくださったとあります。立ったまま相手の足を洗うのは不可能ですから、ひざまずいて受け入れてくださる。「あなたはかけがえのない人なのだ」と言ってくださるのです。
人は神の祝福なくしては生きられません。神の祝福を求めその中に生きた人々の記録が旧約聖書と言ってよい。その流れを受け、神の祝福の中で生きることがキリストにおいてはっきりと実現した、そのことが書いてあるのが新約聖書です。
教会は、その祝福を持っていきます。「あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるため」(使徒3・26)。これが、わたしたちの働きとなります。
使徒パウロの手紙は祝祷(祝福)と祝祷との間にはさまれていると言えます。わたしたちも礼拝に出て、祝祷において、散らされていく。集められているのは散らされるためであり、祝福を受けるためです。わたしたちの生涯も祝祷と祝祷の間にあると言えます。
祝福は復活の喜び
わたしたちは祝福されているのですから、当然そこには感謝、喜びが湧き上がります。悲しみ、苦しみ、暗さがあるにもかかわらず喜ぶ。これが聖書の通奏低音です。
「楽しめ」「喜べ」は聖書に800回出てきます。なぜでしょう。神が共におられるからです。だから「にもかかわらず」の喜びなのです。このことを本当にわたしたちは感謝して集まる。それが教会です。
わたしの父は牧師で、今で言う過労死、腎臓が悪くなり最後を迎えました。父の荷物を片付けようとしたら、巻紙のようなものがあり、最後の言葉が書いてありました。病院の人に感謝、葬儀のこと、母に対する感謝、そして子どもたちに。「親の歩んだ後を、主を見上げつつ、ついてきてください。ではまた」とありました。それを読み、死について改めて「ではまた」なのだと知らされました。日本では「さようなら(左様ならざる運命ゆえに御別れします)」。独特の無常観です。しかし聖書では「ではまた」なのです。
わたしたちは多くの悲しみを経験しながら、再会を期して亡くなった人を送ります。「なぜ」という死にも直面しますけれども、その人に出会えたことを感謝して、「ではまた」なのです。復活の喜びがあるのです。
十字架なくして復活はありません。ですから、苦難を経て喜びへ至る。そこで鍛えられるのでしょう。逆に言えばこの苦しみがあるから神が共にいてくださる(インマヌエル)。だから喜ぶのです。
キリスト教を一言で言うならば、「インマヌエル(神われらと共にいます)、アーメン(本当にそうです)」です。このことを共に喜び感謝するのが礼拝なのです。
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