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2008年 1月1日発行 No.475
御言葉に心燃やされ
金田 佐久子
主の年2008年を迎えました。
新しい年を迎えるにあたり、ルカによる福音書第24章32節を今年の教会の御言葉としました。この年も、賛美礼拝と一般礼拝では引き続きルカによる福音書を学んでいきます。主の宣教の働きや十字架と復活の出来事から、福音を知り、福音を受け取りましょう。福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです(ローマ1・18)。
「幻」の説教
何よりも福音は聖書を説き明かす説教において示されなければなりません。そのために説教の学びを続けています。遅々とした歩みに時にもどかしさを覚えますが、「継続は力」と我が身を励ましています。
そんなわたしがぜひ聞いてみたい「幻」の説教があります。それは、ルカによる福音書第24章13節以下で、エマオに向う二人の弟子たちに語られた主イエスの説教です。
この二人の弟子たちはエルサレムからエマオという村に向っているところでした。彼らはこの数日エルサレムで起きた一切の出来事について話し合っていました。そのときイエスが彼らに近づいて、一緒に歩き始められました。けれども、二人の弟子たちの目は遮られていて、その人がイエスだとわかりませんでした。イエスが「何を話しているのですか」と尋ねると、「あなたはエルサレムで起こったことを何も知らないのですか」と答え、二人は「ナザレのイエスのことです」と言って話し出しました。
二人は、ナザレのイエスこそイスラエルを解放してくれる預言者だと望みをかけていたこと、しかし、ユダヤの祭司長や議員たちが死刑にするために引き渡して十字架につけたこと、それから三日目の朝に、仲間の婦人たちが墓に行ったところ、イエスの遺体は見つからず、天使たちが「イエスは生きておられる」と告げたと言って墓から戻ってきたこと、仲間の者たちも墓に行ったが墓は空であったことを話しました。
彼らの言葉を聞いて、イエスは嘆き、答えられます。そして彼らに、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説き明かされました。
わたしはこの主イエスの説教を聞いてみたい。説教とは何であるか示されていると思うのです。
御言葉に心燃やされ
エマオに向う弟子たちに復活の主イエスは近づき、共に歩み、彼らの心にある思いを十分に聞いてくださいました。師であるイエスの逮捕、十字架の死、彼らの失望と落胆、婦人の弟子たちの報告への戸惑いを受止められました。
その上で、彼らの目が覆われていたために見損なった神の出来事を告知されます。彼らの望みを絶ったかと思われたイエス十字架上の死が、神にとってはキリストが通らなければならない苦難であり、栄光の入り口である、と語られました。
二人の弟子たちは、同伴していた旅人が主イエスだとわかったとき「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語りました。主イエスの説教によって彼らの心が燃やされました。
復活の主はわたしたちに近づき、共に歩まれます。聖書を説き明かし、神の出来事を告げ知らせてくださいます。そのとき人の思いは打ち砕かれ、心は燃やされ、目は開かれ、神の御業を知ることができるのです。
この年も主に期待します。
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