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2008年 4月1日発行 No.478 

わたしたちの心は燃えていたではないか

                            金田 佐久子
  
 先月の第32回西川口教会アシュラムには、村瀬俊夫先生を今年も講師としてお迎えしました。一般礼拝説教では大いに恵みをいただきました。新年度を始めるにあたり、再びこのルカによる福音書第24章の説教から聞きたいと思います。

 “エマオに二人の弟子が帰ってゆきます。彼らは「わたしたちの望みが絶たれた」と言いました。彼らの望みであったその人は十字架につけられて悲惨な死に方をしました。彼らは自分の村に戻るしかなかった。そこにしか行くところがなかったからです。
 十字架の意味は、そうやすやすと弟子たちにわかったわけではないのです。わたしたちも同じことです。復活の主イエス様に出会わされた時、はじめてわかる。復活の主に出会わされた時、弟子たちの目が開かれた。その道を通らなければならない。日本のクリスチャンはその道を通っていない人が多い、だから脱落者が多いと痛感しているわけです。けれども、その道を通った人は脱落することはありません。復活の主イエスに出会って、目が開かれた人が脱落することはありえないのです。
 十字架のイエス様が私のために死んでくださった、ありがたい、そんな思いで信仰に入る人は少なくありません。けれどもそういう思いだけで信仰生活に入ってもなかなか続かないのです。私もそうでした。途中で何度やめたくなったかわからない。どうしてこんなに心が揺れるのか、喜びが持続しないのか。自分に苛立ちを覚えて、責めました。
 アシュラムに導かれてから少し経った1991年2月ヨハネ福音書13章を静聴していたとき、イエス様が私の足を洗ってくださる御姿を開かれた心の目で見ることができました。私はイエス様に赦された、と言う思いが全身に沁み通りました。つらいこともありますが、それに負けないでいつもイエス様と共に歩むことができるようになりました。
 エマオの弟子も、復活のイエス様との徹底的な出会いを経験させられたのではないかと思います。
 イエス様は、クリスチャンの誰とも一緒にいたいと思っておられる御方です。二人の弟子の一人は名もない人です。イエス様に失望した人、クリスチャンの脱落者と言ってもいい。そういう人と共にいたいと願われる。彼らはイエス様だとわかりませんでしたが、イエス様は彼らと共に歩み、彼らの話を聞き、聖書を通して語ってくれました。
 イエス様はなおも先に行こうとされる様子だったので、二人の弟子は思わず「一緒にお泊りください」と言いました。無理に引き止めた、と書いてありますが、これは二人の熱意の表れです。その祈りは御心に適うのですから必ず聞かれます。そのとき心は燃えてきます。燃え尽きるのではなく静かな温かさです。
 イエス様が共にいて何をしてくださっているのでしょう。両手を上げて祝福してくださっているのです。共にいてくださるイエス様は、いつも両手を上げて私を祝福してくださる御方です。
 礼拝とは、ここにおられるイエス様を私が迎え入れる、そしてイエス様の祝福をいっぱいいただくことです。罪の赦しの祝福、復活の命の祝福、イエス様が神の子であるように、わたしたちも神の子として神を父と呼び、大胆に恵みの座に近づくことができる祝福です。主の日の礼拝、また朝ごとの祈りにおいて、復活の主とお出会いし、結ばれることです。”

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