トップページに戻る西川口だよりに戻る

2008年 12月 1日発行 No.486 

主において常に喜べ

                            金田 佐久子
 
 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(フィリピ4・4)

 今年のアドベントは、賛美・一般礼拝において「フィリピの信徒への手紙」から1章ずつ学ぶことにしました。この手紙は使徒パウロの獄中書簡で「喜びの手紙」とも呼ばれます。短いながらも、喜びに溢れたパウロの力強い信仰がみなぎっているこの手紙の言葉に、教会と多くのキリスト者が励まされてきました。
 パウロは、フィリピの信徒たちが今日まで福音にあずかっていることを祈りの度に喜びます(1・4〜5)。また、パウロを苦しめようという不純な動機からキリストを宣べ伝える人がいたのですが、パウロは、とにかくキリストが告げ知らされているから喜んでいる、と語ります(1・18)。さらにパウロは、いけにえとして自分の血が注がれても、すなわち、自分がキリストを伝えることで拷問や死に直面しても喜ぶ、と語ります(2・17)。それは自分の体を神にささげる奉仕であるからです。このように、パウロの喜びは死においても揺るがないものなのです。いったいその喜びの源はどこにあったのでしょうか。
 パウロは「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」(3・12)と語ります。キリストがわたしをしっかりと捕まえてくださっている、ということです。また「わたしには・・・キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(3・9)。神の真実と確かさがわたしを生かし立たせている、その信仰による確信を持っています。
 パウロの喜びは、キリストご自身にかかっています。それは御自分を無にして、人間と同じ者として、人間の姿で現れたキリスト。そして、へりくだって十字架の死に至るまで従順であられたキリスト。死者の中から甦られたキリスト。やがて救い主として来られるキリストです。パウロは言います。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(3・8)。キリストを知る喜び、キリストに愛されている喜び、キリストに仕える喜びに満ち満ちていたパウロでした。
 キリストの到来を祝うクリスマス、それは喜びの訪れなのです。

トップページに戻る西川口だよりに戻る