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2010年 10月 1日発行 No508 

子供の一人を受け入れる者に

                            金田 佐久子

 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マルコ 9・36〜37)

 先日、中学生の子供たちがいじめをテーマにした劇を作り上げるという内容のテレビ番組を見ました。数日間で劇を仕上げ発表したのです。その練習過程で子供たちが役を理解し、役に入り込んで、変えられていく様子を見ました。番組の最後に、演技指導をした演出家が感想を語っていました。
 「自分にとっての1年は、人生の46分の1の時間。しかし、彼ら中学生たちの一年は、人生の14分の1に当たるわけで、彼らの1週間は、自分の1週間よりも長くて濃い時間なんです。時間の感じ方が自分とは違うんです。年をとると時間のたつのが早くなる。大人の自分の今の1年に比べたら、彼らは非常に濃厚な時間を生きているんですよ。」
 なるほどとうなずきました。1年は1年です。同じ長さですが、確かに子供の頃の1年と、大人になってからの1年は、長さ、早さが違います。「1年が人生の何分の1」と考えたことがなかったので、新鮮に感じ、さらに「もっと幼い子供の場合はどうだろうか。例えば、3歳の子供の1年は、人生の3分の1に相当する時間になる」などと考えました。子供は「今」という時を濃厚に生きているのだと改めて思いました。そして、子供の「今」という時に、正しいもの、善いもので心を養い育てることが大切だと思わされます。
 今はなかなかできなくなりましたが、以前はできる範囲で子供たちの家庭訪問をしていました。10年以上前のことですが、ある中学生のお宅を訪問してお母様のお話を聞きました。「主人がこの子のことを『ぼくの宝だ』とよく言うんですよ」との言葉が忘れられません。そのお子さんが、ご両親もある程度の年齢に達してから与えられた子であったので、ご主人は本当にかわいくて仕方がないそうで、その愛情を素直に表現しておられ、聞いていたわたしまで心温まる思いになりました。
 濃厚な「今」を過ごしている子供たちに「あなたはわたしの宝だ。とても大切に思っているよ」と愛の言葉をかけ続けたら、子供は自分を大切な存在だと認められるのではないでしょうか。逆に、被害者意識に苦しむ親から「お前がいないほうがよかった」などという言葉を聞いて育ったら、子供は自分がどうでもよい存在だと思い込まないでしょうか。
 子供の周囲にいる大人たちがどのように子供たちに関わっているのか問われます。子供ばかりでなく大人たちも愛の言葉が必要なのです。祝福の言葉で満たしていただかなくてはなりません。教会はその祝福に生きる言葉を与えられています。
 主イエスは、子供のような小さな者を受け入れるようにと語られました。それが祝福に生きる道です。イエスは子供を弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げられました。その仕草によって、受け入れること、共に生きることを示されたのでしょう。子供ばかりでなく、すべての人一人ひとりが主なる神の御腕に抱かれているのです。主に受け入れられ、祝福されているイエスの弟子とされています。その祝福を分かち合っていきます。

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