トップページに戻る西川口だよりに戻る

2010年 12月 1日発行 No510 

救い主は、弱く、小さく、貧しさの中に

                            金田 佐久子

 今年も、クリスマスが近づいてきました。主イエス・キリストの誕生のお祝い、それがクリスマスです。
 西川口教会の主日礼拝では、一般礼拝で「使徒信条」を共に告白しています。使徒信条は、主イエス・キリストが「聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」、と告白しています。クリスマスのお祝いは、このありえない誕生を驚き、喜ぶお祭りです。人間の知識・経験を超えた出来事。神の子が、神の霊の力によって、まだ結婚していない一人の若い女に宿り、この地上に人としてお生まれになった奇跡。キリストは世に来られた! 神の決定的な救いの始まりです。この奇跡によって世界に祝福がもたらされたことを信じ、この大いなる神の出来事を、クリスマスを心から喜び祝います。
 聖書で、主イエスの誕生とそれに付随する出来事を伝えているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書です。先月末の家庭集会では、その箇所の一つであるマタイ福音書第2章から、東方から来た占星術の学者たちが幼子イエスを見出し、礼拝する出来事を共に学びました。救い主はどこにおられるか、と問われ、御言葉を思い巡らしました。
 学者たちはユダヤ人ではなく、異邦人であり、異教徒であり、幼子イエスに会ったこともない人たちでした。その彼らが幼子イエスを礼拝しました。ですから、教会の礼拝は、教会や聖書をよく知らない人でも来られるところです。
 学者たちはエルサレムの宮殿に行きましたが、そこにはメシア(キリスト)はおらず、教えられてベツレヘムに向かいました。彼らの目に飛び込んできたのは、家にいる母マリアと生れて間もない幼子でした。圧倒するような威厳に満ちたキリストではなく、また苦労をねぎらう言葉も期待できず、弱く、小さく、貧しいように見える幼子がいました。彼らが、自分たちの願う救い主の姿に固執していたらこの光景に失望したかもしれません。しかし彼らはこの幼子に救い主を見て、礼拝し、携えてきた贈り物をささげました。
 昔、預言者イザヤは、やがて来たる救い主はこのような人であると告げました。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」(イザヤ53・2〜3)
 その通り、イエスは地上の弱さや貧しさの中に生きて、痛み、病を知り、罪を負い、死に至るまで弱さに徹底されました。人間が経験する弱さと貧しさ、またイエスだけが経験された罪人としての裁きの死を通るためでした。そこには目当てがありました。わたしたちが主イエスによって豊かになること、そのためにイエスは世に来られました。
 主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(コリント二8・9)

トップページに戻る西川口だよりに戻る