トップページに戻る西川口だよりに戻る

2011年 2月 1日発行 No512 

西川口教会アシュラムに寄せて

                            金田 佐久子
 
 2月26日午後から27日午前の主日礼拝まで、第35回「西川口教会アシュラム」が開かれます。昨年に引き続き、奉仕をさせていただくことになりました。
 2年前の教会アシュラムで、「テサロニケの信徒への手紙一」に集中して御言葉に聴きました。教会アシュラムの2日間で一書に取り組む良さを体験しました。昨年は「ペトロの手紙一」から御言葉に耳を傾けました。そして今回のアシュラムでは「コロサイの信徒への手紙」を、わたしに語られる神の言葉として聴きます。
 わたしが西川口教会アシュラムに参加して、どのくらい経ったか記憶が定かではないのですが、1991年の第19回アシュラムからは毎回参加していると思います。アシュラムを通して受けた恵みは、聖書をわたしに語られる神の言葉として聴くこと、それを身につけさせていただいたことにあります。
 日本基督教団信仰告白に「・・・聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」とあります。聖書は信仰生活の規範で、わたしたちの生活は聖書をよりどころとするのです。それは自明のことではなくて、訓練によって少しずつ体で覚え、身につけていくことです。アシュラム集会もその訓練の一つです。
 以前は、本を読むのと同じように聖書を読むことに、何の疑問も持っていませんでした。20数年前、大学生になって教会学校の奉仕を始め、そのうち子供たちへの説教をするようになりました。子供たちに教えるために聖書を読んでいたわたしがいました。「わたしが」聖書を読み、勉強し、理解し、教えていました。つまり、「わたし」が主体でした。しかしアシュラムに続けて参加して知らされたのは、主体は「わたし」ではなく、「神」であり、神が語られ、人はその神の言葉を聴くばかりのものなのです。人は受身なのです。今までのわたしの聖書に対する態度は間違っていました。神が気づかせてくださいました。
 朝ごとに「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル上3・9)との祈りで聖書を開きます。 聖書が神の言葉であるとは、神が聖書を通してわたしたちに語ってくださることです。そのようにして、次第に聖書の言葉を神の語りかけとして聴く姿勢が身についてくるようになりました。朝ごとに、神が語ってくださる恵みを喜んでいます。神が共にいてくださる幸い、わたしと共にいたいと言ってくださる神の愛を感じ、感謝にあふれます。そしてそれは、誰にでも分け隔てなく与えられる恵みなのです。
 この恵みを体験し、体得するため、アシュラムはふさわしい訓練の機会です。アシュラムを体験してください。今回の「西川口教会アシュラム」の主題聖句は「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです」(コロサイ2・10)。わたしたちを満たしていてくださる教会のかしらなるキリストに期待します。

トップページに戻る西川口だよりに戻る