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2011年 10月 1日発行 No520 

存在そのものが「よし」とされ

                            金田 佐久子

   神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。(創世記 1・31)

  「いる」だけでよい
 「あなたがそこにいるだけでいいのよ。会えてよかったわ。」
 そう声をかけられたとき、温かな感じがし、安心感を覚えました。キリスト教カウンセリングセンターの学びでのことです。「そこにいるだけでよい」。これはもっとも安心感を与えるメッセージと教わり、また体験しました。目に前にいる相手はかけがえのない、世界にただ一人しかいない人。その人の存在そのものが尊い。この人は明日にはこの世にいないかもしれない。「今」・「ここ」の重みと、存在の重みに目が開かれたような気がしました。
 そのような気づきを大切にしながら、今の暮らしを振り返り、この現代社会を思うと、「いるだけでよい」というメッセージを聞くことがない現実を認めざるをえません。
 学校でも、家庭でも、何かをするように指示する言葉でいっぱいです。もしかすると教会でもそうなりかねません。「頑張りなさい」、「勉強しなさい」、「努力しなさい」、「もっと早くしなさい」。世の中や自分に役に立つためにそうしなさいと言うのです。
 もし「いるだけでよい」と言おうものなら、「とんでもない。そんなことで世の中は渡っていけない」と反論されてしまいます。現代の社会にとって「そこにいるだけ」の人は、怠け者であり、無力であり、人生に敗れている者でしかないからです。
 しかし「そこにいるだけでよい」という言葉が人に安心感を与えるというのは、とても大切なことです。

  「極めて良かった」
 聖書では、学ぶこと、努力することそのものは否定していませんし、怠けることは過ちだと戒めています。ですからここでお伝えしたいのは、何かをして役立つことで評価を得るのとはまったく異なる評価基準があることです。そのことは創世記の御言葉を通して示されています。
 主なる神は天地万物をお造りになりました。そしてお造りになったすべてのものを御覧になったとき、「それは極めて良かった」と言われた、とあります。神御自ら思わず声を上げられたというのです。英語では、It was very good. と表現されます。goodにあたる言葉には「美しい」という意味もあるそうです。ですから存在するものはすべて美しいということです。存在そのものが肯定されています。神の目から見れば、造られたものはすべて「よし」とされており、美しいのです。
 主なる神は、世界を造って終わりとされたのではなく、保ち、支え、導いてくださいます。神を見失った世界が、神を見出すことができるようになるために、そして、世界が「極めて良かった」という美しさを回復するために、わたしたちもまた完成へと導かれています。

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