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2012年 2月 1日発行 No524 

神は祈りを助け待っていてくださる

                            金田 佐久子

  祈りへの求め
 数年前、日本キリスト教団出版局の月刊誌「信徒の友」の特集に関わる編集の奉仕を、2年間したことがありました。その編集委員会では初めに短い礼拝をささげ、次いで出版局の職員の方から最近の動向や取組の報告がありました。その中で印象に残っているのは「お祈りの本はよく売れる」という報告でした。ちょうど今頃、年が明けてしばらくした頃の編集委員会でした。新しい年の初め、祈りの手引きとなり助けとなる本がよく売れている、そのようにして祈る人々が多くいること、祈りたいという求めがあること、それに応えていくことの必要性と大切さを感じたことをよく覚えています。
 
  祈りは信仰の呼吸
 このように、神を信じるとは祈りができるようになることだと言えます。祈りは、神を信じる者にとって呼吸のようなものであると、よく言われます。この肉体は息をしないと生きていけません。それと同じようにわたしたちの信仰がいのちあるものとなるには、霊の呼吸である祈りを絶やすことはできません。祈らなければ死んでしまいます。死んだ信仰は空しいもの、意味がありません。祈りの本が求められるのも、自分の祈りを実りあるものとしたいという願いではないでしょうか。
 いのちある信仰生活に生きるために祈りが必要です。これから長い人生を生きる子供たちや若い人たち、成人を迎えられた人たちも、地上の生涯が残り少なくなっていくご高齢の人たちにも、神が本来わたしたちに望まれる歩みに生きるために、祈りはなくてならぬものです。

  祈りの言葉・祈りのこころ
 自分一人で祈るとき、教会の集会などで人の前で祈るとき、どのように祈っていいのかわからない、と問いかけられることがあります。そのとき「自分の言葉で祈ればいいのよ」と答え、励ますことが多いのですが、それだけでいいのでしょうか。不十分さを感じています。
祈りについて考えるとき、思い起こす聖書の言葉があります。
 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマ8・26)
 本来、わたしたちはどう祈るべきかを知らないと、聖書は告げています。聖霊の神のうめきながらの執り成しによって、わたしたちの弱さが覆われ、祈りが聞かれるのです。神御自らわたしたちの祈りを助けてくださっているのです。それほどまでに、わたしたちの祈りを待っていてくださる神であられます。
祈りの言葉のお手本は聖書の中にあります。聖書は祈りの宝庫です。特にあげるとすれば、新約聖書では主の祈り、旧約聖書では詩編です。自分の祈りとして祈ってよいのです。神は待っていてくださいます。

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