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2012年 11月 1日発行 No533
しもべとなられたキリスト
金田 佐久子
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 (フィリピ2・6〜8)
召天者合同記念礼拝
11月の最初の日曜日は日本基督教団の教会暦で「聖徒の日」と定められています。西川口教会では、先に天に召された教会員と関係者を覚え「召天者合同記念礼拝」をささげ続けてきました。
このたびも昨年の記念礼拝からこの1年の間、愛する兄姉を天に送りました。昨年12月には安部逸朗兄が、今年7月には熊谷雅晴兄が地上の生涯を終えました。
この記念礼拝では、この1年間に逝去された兄姉の大きな写真を講壇の近くに置きます。また、礼拝堂の前には先に召された方々の写真を入れたパネルを置きます。そして、逝去された教会員と関係者のお名前のリストを週報にと共にお渡しします。こうして、先に神に召された方々を覚え、ご遺族に神の慰めを祈りながら、共に礼拝をささげています。
神の愛のしもべ
一般に「慰める」とは「何かをして、一時の悲しみや苦しみを忘れさせる」という意味で用いられることが多いでしょう。しかし、キリストの教会で語られる慰めとは、神から与えられるものであり、勧めとなり、励ましともなるものです。神の愛がわたしたちの心に注がれるところに生まれる慰めです。その慰めを知った時には、自分自身が神の愛のまなざしのもとにあることがわかります。わたしたちは見捨てられてはおらず、神が顧みてくださっていると信じることができます。神はどこまでもわたしたち人間を愛し、追い求めてくださる御方です。先に地上の生涯を終えた方々も、今なお生きているわたしたちも、皆、神に愛されている一人ひとりなのです。
その神の愛が目に見えるかたちで人間の歴史の中に現れました。神の愛は、イエスという御方によって、わたしたちが見て、聞いて、触れることのできるものとなりました。キリストは、人間のところへ、人間となるために、降りてきてくださいました。イエスは人々の間でお暮しになりました。やがて人々の妬みのため、十字架の死刑を宣告され、人々に見捨てられました。イエスの十字架の死は、わたしたちの罪が赦され、神の愛を受けて喜んで生きるようにための、神の救いの出来事でした。わたしたちに対する神の愛は、苦難の極みにまで、死に至るまで降りていかれたイエス・キリストのうちに示されているのです。
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