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2013年 3月 1日発行 No537 

愛されている者

                            金田 佐久子

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。(ヨハネ13・1)

   レントの日々の中で
 今年の復活日(イースター)は3月31日です。イースターに向かって、今、受難節(レント)の時を過ごしています。イエスの十字架への道、苦難と死、葬りと復活の、救いの出来事を特に深く思い、信仰を吟味します(今年のレントは2月13日から3月30日まで)。そして、心からの感謝と喜びをもってイースター礼拝をささげます。
 さて、そのレントの日々の中、先月は2月23日・24日に第37回西川口教会アシュラムが開催されました。今回の教会アシュラムの聖書は、現在主日礼拝のテキストであるヨハネによる福音書より、第13章から第16章としました。この聖書の箇所は、主イエスが十字架で死なれる前に弟子たちに語られた説教が大半で、これをイエスの告別説教と呼ぶことがあります。レントにふさわしい聖書であると思いました。

   弟子の足を洗う
 教会アシュラムにおいて、ヨハネによる福音書第13章の弟子の足を洗ってくださったイエスの言葉に深く心を動かされました。
 イエスは、過越し祭の前の夜、弟子たちと共に食事の席についていました。そのただ中で弟子たちの足を洗い始められました。実は、足を洗うのは人に使われる身分の低い人のする仕事でした。それなのに、イエスご自身がひざまずき、その手で、弟子たちの足を洗ってくださったのでした。
 イエスがシモン・ペトロのところに来られたとき、ペトロは思わず「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。そのペトロに答えられたイエスの御言葉にわたしは立ち止まらされました。
もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)

   足を差し出すとは
 既に約3年の月日、弟子とされ、イエスにつき従ってきたペトロです。イエスを師と仰ぎ今日まで従ってきたペトロです。互いに深い信頼関係の中に生かされていたはずではないでしょうか。しかしペトロが足を差し出し、イエスに洗っていただくところで、イエスとペトロとの関わりが始まるということです。それがイエスの思いであるのです。
 足を差し出し、イエスに洗っていただくとは何を意味するのだろうと、御言葉をかみしめました。示されたのは、あなたの汚れたところをわたしに差し出すがよいと、イエスが招いてくださっているということでした。疲れ弱っている体でもあるし、病、痛み、傷、老い、でもあるでしょう。傷つき、涙を流し、血を流している魂でもあるでしょう。自分で自分をどうすることもできないと、苦しみ悩んでいる自分自身でもあるでしょう。それらを差し出すがよい、わたしが洗い清める、回復する、とイエスは語ってくださるのです。
 イエスはわたしたちの体と心と魂を、そして全存在を心にかけてくださいます。回復させ健やかにしようと、ひざまずき手を伸ばされます。自分自身の最もつらいところでイエス・キリストと出会い、関係が始まるのです。最も必要なところに愛を注いでくださるイエスが共にいてくださいます。

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