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2013年 8月 1日発行 No542 

共に座っている恵み

                            金田 佐久子

  見よ、兄弟が共に座っている。
  なんという恵み、なんという喜び。
(詩編133・1)

  恵みと喜びにあふれて
 讃美歌21の162番「見よ、兄弟が」は、この詩編第133編に曲をつけた賛美歌です。今までは子供と大人の合同礼拝のときに、よくこの曲を選んで賛美してきました。
 西川口教会では先月から、日曜朝午前10時半からの一般礼拝は、子供も大人も一緒のみんなの礼拝となりました。もう合同礼拝ではありません。幼な子から高齢者に至るまで共に座り、一つになって、唯一の神を礼拝しています。一回ごとの礼拝が、この詩編のように、何という恵みと喜びに満ちていることかと、感謝にあふれますように、聖霊の助けと導きを祈ります。

  教会という信仰共同体
 詩編第133編を今日の状況に照らして言えば、教会という信仰共同体に人々が集まっていることが素晴らしい、と歌っているわけです。どうして人々が集まり共に座っていることが、大きな恵みであり、喜びなのでしょうか。
 教会はだれでも所属することができます。年齢にも性別にも関係ありません。教会にいる人たちは、出身地も異なり、通っているあるいは通った学校も同じではありません。職業も、個性・性格も実に様々です。生まれたばかりの赤ちゃんが連れられてくることもありますし、老いて主日礼拝に出るために一週間を整えているような方もいます。家族と一緒に来ている人もありますし、独り暮らしの人もいます。まことにいろいろな人たちが集まっています。おそらく、教会という共同体は現代日本では珍しい集団といえるでしょう。「教会は現代の長屋」という言葉を聞いたことがあります。一般社会の中で、これほど雑多な人を見受ける集団はまれです。
 たいていの人にとって、自分がそのままの自分でいられる集団は家族です。教会は、社会の中で見知らぬ者同士が家族としていることができる集団なのです。老いも若きも、男も女も、共に座り、共に同じ方向を向きながら、同時に一人ひとりが、かけがえのない神の作品として生き生きと自分らしく生かされていくところです。また、誕生、結婚、葬儀と、大きな人生の節目において、教会で主の祝福と慰めを与えられます。このようにみていくと、教会はこの時代、この社会にあって、まことに貴重な存在と言えます。教会に人々が集まっていること自体が喜びであり恵みです。
 8月です。特に平和を深く思い、祈りを合わせる時です。どんな人も共に生きていけるところに、平和が訪れているはずです。喜びにあふれている集まりには平和があります。教会が、礼拝において、日々の歩みにおいて、平和を実現することができますよう祈ります。

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