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2013年 9月 1日発行 No543
神に望みを置く
金田 佐久子
高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
(テモテ一6・17)
敬老祝福式にあたり
西川口教会では70歳以上の教会員と関係者を覚えて、毎年9月敬老の日に近い日曜日に、一般礼拝において敬老祝福式を行ってきました。最近は連休のため、敬老の日より1週早くなりました。祝福を受けられる方が年々増えており、大きな祝福をいただいていることをうれしく思います。人生の終わりの日々もいっそう神の恵みに輝き、神を喜び、神に望みを置いて生きることができますようにと祈ります。
太陽について語る人
神に望みを置いて生きるとは、どのような姿を見せるのでしょうか。今までも何度か紹介しておりますが、わたし自身の信仰生活に良き導きとなっているヘンリ・ナーウェンの言葉を、敬老祝福にあたり分かち合いたいと思います。「いま、ここに生きる 生活の中の霊性」から「太陽について語る」という文章です。
“私の友人に、喜びが内から輝き出ている人がいます。彼の生活が楽しいからではなく、自分や他人の苦しみのただ中にあっても、そこに神の臨在を認めることを習い性にしているからです。
彼はどこに行っても、誰に会っても、美しいもの、感謝できるものを、何かしら見たり、聞いたりすることができます。彼は周囲の大きな悲しみの存在を否定してはいません。また、人々の苦しみもだえる姿が見えないとか、そのうめき声が聞こえないということでもありません。・・・現実を見据えていますが、絶望よりも希望の方が、不信仰よりも信仰の方が、恐れよりも愛の方が、より真実であることをその深い信仰によって知っています。この信仰による現実主義が、彼をこのように喜びにあふれた人にしているのです。
彼に会うといつも私は、戦争や子供をおそう飢餓、腐敗した政治やだまし合う人間の姿に彼の注意を向けたい誘惑にかられます。しかし、私がこのようなことをするたびに、彼は、やさしい慈愛に満ちた眼で私を見つめてこう言います。「二人の子供がね、パンを分け合っているのを見たよ。・・・私に生きる勇気を与えてくれたのは、こういう貧しくとも素朴な人々なんだ」
この友人の喜びは伝染します。彼といっしょにいればいるほど、雲間に輝く太陽をかいま見る機会が増えます。空が雲によって覆われていても、太陽はそこにあることを私たちは知っています。でも私は、雲を見ることができるのは太陽のおかげだと気づく日まで、彼がどんなに太陽について話していても、ずっと雲について話す者でした。”
雲を見ることができるのは太陽のおかげ、この気づきにわたしは心惹かれます。この世に悲しみ、痛み、苦しみは、確かにあります。年を重ねるほど、その身に負うことになります。しかし、それは太陽のおかげで見ることができる雲のようなもの。太陽には、希望、信仰、真実、愛、それらの源である神ご自身がイメージされています。神はすべてのものを与えて、それらを通して、わたしたちを喜び楽しませてくださいます。
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