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2013年 10月 1日発行 No544
祭司とされたわたしたち
金田 佐久子
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(ペトロの手紙一2・9)
洗礼を受けたらどうなるか
先日の木曜日の昼間祈祷会でいろいろ話をしているとき、「洗礼を受けたらどうなるの」という質問があった、と話題になりました。「教会の墓地に入れる」というユニークな回答もありました。「礼拝を守る」とか、わたしはそのとき「仲間ができる」と答えました。いろいろな答えができると思います。そのときは「教会の一員になる」ことに関わる実際的な応答が中心でした。それぞれが自分にとって大切に思っているところを語ったと思います。大切な質問だと思いました。
一方で、わたしたちは神の言葉に従い、導かれていますから、聖書が語ることを聴く必要があります。ここでは冒頭の御言葉から学びたいと思います。
祭司となる
洗礼を受けたキリスト者は、神に選ばれ、王の系統を引く祭司とされ、聖なる民とされ、神のものとされている。とりわけ、祭司とされていることを深く自覚したいと思います。
祭司とは、仲立ちとして神と人とをつなぐ働きをする人のことです。旧約聖書の時代においては、定められた部族の人たちが、職業的に祭司の務めにあたりました。しかしキリストがお出でになったことによって、旧約の祭司職は過ぎ去りました。ペトロの手紙で語られていることは、キリスト者すべてが祭司として召されているということです。キリスト者は祭司的存在として奉仕するようにされているのです。それはいったいどういうことでしょうか。
10月は、わたしたちプロテスタント教会に属する者たちにとって、記念すべき大切な日があります。それは10月31日の「宗教改革記念日」です。
ローマ・カトリックの修道士であったマルティン・ルターは、1517年10月31日、教会あてに質問状を出しました。これは神学的な問題を問うものでしたが、このことがきっかけとなって、ルターは宗教改革の担い手とされていきます。ルターが主張した「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」の三大原則は、プロテスタント教会に受け継がれています。
ルターはその後修道院を出て修道士ではなくなりましたが、死ぬまで修道生活―毎日聖書を読み、祈り、黙想する―をしました。ルターは、一人ひとりがそのように生き、神の愛を感じ、分かち合い、仕え合う社会を造ろうとしました。これが「万人祭司」の意味です。祭司的存在とは、このように生きることです。かつては暗闇の中にいましたが、今は光の中に移されています。「あなたも光の中に生きられる。祭司になるように招かれている」と告げる者にされているのです。
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