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2014年 3月 1日発行 No549
自分の体を献げる
金田 佐久子
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
(ローマ12・1)
この年も2ヶ月が過ぎましたが、わたしは今年教会に与えられたこの御言葉をこの年の終わりまで常に黙想しようと思っています。御言葉を思い巡らして、主なる神に問いかけています。「主よ、『自分の体を献げる』とはどういうことでしょう。『神に喜ばれる』とは、どういうことなのでしょう。どうぞ示してください」と。御言葉によって導かれていくことを、主に期待しています。
「自分の体を…献げなさい」と語られています。自分の体を献げるとは、身も心も魂も、すべてを献げること、自分の存在をあげて主に従っていく。それは、神の憐れみに促されてなしていくことです。
今年のレント(受難節)は3月5日より始まり、イースター(復活日)は4月20日です。キリストの十字架と復活の出来事をより深く心に留めて過ごす時期となりました。
わたしたちに先だって、主イエスがすべてを献げてくださったことを忘れることはありません。
「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17・19)。
そう祈られた主イエスは、その後当局に捕らえられ、鞭打たれ、十字架にかけられ、命を取られました。主イエスがその苦難を黙って引き受けられたのは、そこに自らを苦難の僕として罪の償いの供え物とされた(イザヤ書53・10)、主イエスの献身があったからでした。
今年の御言葉を与えられてから、普段親しく読んでいる信仰書(「ナウエンと読む福音書」)より、自分の体について、新しい発見をしました。ナウエンはこう語ります。
「イエスは、わたしたちのために十字架上で死に渡されて、わたしたちを救うために来てくださった主です。そして栄光を受けた体にしるされた傷は、わたしたちがどのように救われたかを思い起こさせてくれます。
さらにそれは、わたしたち自身の傷も、神へと向かう妨げにならないばかりか、それ以上のものであることを思い起こさせます。それは苦しまれたイエスに従うためのわたしたちの固有の道を示すものであり、復活後の命において、それが栄光を受けると定められています。受けた傷によってイエスと判別できたように、私たちもそうなります。」。
主イエスの復活のお体に傷跡があることは知っていました(ヨハネ20・19以下)。弟子たちが、目の前の人が十字架に死んだはずの主イエスであるとわかったのは、復活のお体に十字架の釘と槍の傷跡があったからです。
さらにその出来事から、わたしたち自身の傷も栄光を受けるというナウエンの言葉には、たいへん驚きました。そこまでは思い至っていませんでした。確かに、わたしたちは歩みの中で体にも心にも傷を負い、他者も自分も傷つけてきました。それはわたしたちの罪のためです。しかし神にとって、それは何の妨げにもならず、かえってその傷を受けたあなたこそ、ほかの誰でもないあなただと、神はご覧になる。その傷を負ったままの自分の体を献げるとき、それは、苦しまれた主イエスの後に従うわたしだけの道となり、それは約束された栄光へ至るというのです。何という神のなさり方でしょうか!
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