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2014年 5月 1日発行 No551 

主の昇天 ―祝福の手は上げられて―

                            金田 佐久子
 
 今年、教会の暦で主イエス・キリストが天に上げられたことを記念する「昇天日」は5月29日です。
 よみがえられた主イエス・キリストは、地上で弟子たちにたびたび現われ、ご自分が死に打ち勝って生きておられることを明らかになさいました。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒1・3)とあるとおりです。弟子たちが復活された主イエスを探し出したのではなく、主イエスが弟子たちを訪れて、ご自分が生きておられることを示されました。

 使徒言行録はこのように続きます。
“さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。”(使徒1・6〜9)
 よみがえられた主イエスが自分たちの願う建国をしてくださるかと、弟子たちは期待しましたが、神のご計画はそうではありませんでした。弟子たちが聖霊を受け、地の果てまでキリストの証人となって遣わされていくことが、神の御計画でした。
 主はこれから起こることを弟子たちに告げられると、弟子たちが見ているうちに天に上げられていきました。これを昇天の出来事と呼びます。

 わたしたちは時々「福音を知らないで死んだ人はどうなるのでしょう」とか、「キリストの前に生まれた人は救われるのですか」という問いを持つことがあります。特に家族の中で先に救われたとき、すでに亡くなっている家族のことを思って、そのような問いを抱くことがあります。当然持つ疑問であると思います。
 一方、この問いが示すことは、わたしたちが心のどこかでキリストを人間と同じように考えていること、キリストが人間と同じように時間と空間に制限をされている方だと考えているといえます。十字架と復活は、人間の歴史の中でただ一度起こった出来事であり、わたしたちの救いの根幹となる出来事です。しかし、もしそれだけでキリストの働きが完結したのであれば、それは過去の出来事に終わってしまいます。しかし、主イエスが天に上げられたのは、キリストが時間と空間を超える御方であることを明らかにしていることなのです。天に上げられたキリストは、どんなときもどこにおいてもご自身の業を完成される御方なのです。

 ルカによる福音書にも昇天の出来事が記されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24・50〜51)。復活して天に上げられた主イエスは、弟子たちのために、すなわち教会のために祝福の手を上げてくださっています。わたしたちのため主は祝福の手を伸ばされ、教会は主の御腕に守られ、支えられているのです。ハレルヤ。

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