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2014年 7月 1日発行 No553 

アブラハムの信仰

                            金田 佐久子
 
 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。(ヘブライ11・8)
 
 7月を迎えました。
 記録を見ますと、2011年12月18日より主日礼拝でヨハネによる福音書から説教を始めていました。そして今年の5月25日でヨハネによる福音書の説教を終えました。今年の初め頃、ヨハネによる福音書の説教を終えた後、どの聖書から説教をするのが今の西川口教会にふさわしいのか、祈り求めていました。それに先立って、2014年の教会の御言葉として与えられたのは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマの信徒への手紙第12章1節)です。自分の体を、すなわち自分の存在を献げて生きるとはどういうことかと、この御言葉と響き合う聖書が与えられるようにと、祈って導かれたのは、信仰者の原点というべき、アブラハムの歩みを辿ってみよう、ということでした。
 7月から一般礼拝では、旧約聖書の創世記からアブラハムの物語に、共に耳を傾けたいと思います。御言葉のうちに、アブラハムに呼びかけられた神とお出会いできると信じます。そのとき、神に呼ばれている自分自身を見出すでしょう。神の召し出しに従って、行き先も知らずに出発したアブラハム(ヘブライ11・8)、希望するすべもなかった時にも、なお希望を抱いたアブラハムに倣って(ローマ4・18)、わたしたちも信仰の歩みを踏みだしたいと願っています。

 今、わたしたちが置かれている状況を思います。この日本という国、この国に置かれているキリストの教会、そして西川口教会、わたしたち一人ひとり、その現在と将来を思う時、楽観視はできず、複雑で困難な状況が続くと思います。置かれているところで、信仰を持って生きるとは、献げて生きるとはどういうことか、問われているように思います。

 アブラハムの物語を辿るときに思い起こすのは、森有正(哲学者・フランス文学者。故人)の言葉です。これは説教塾でご指導くださる加藤常昭先生が「森有正先生がこうおっしゃった」と折に触れ紹介されます。こういう言葉です。

 “人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。・・・観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。”(森有正著「土の器に」所収「アブラハムの信仰」)

 他者に知らせることのできない心の一隅で神は出会ってくださる。アブラハムの物語に、そのようにして人間と出会ってくださる神が示されます。その神の呼びかけに答えて、神を呼ぶことができたならば、それは新しい人間にされていること、そういう自分を見出すことにつながってくると思っています。

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