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2014年 8月 1日発行 No554 

アブラハムの信仰(2)

                            金田 佐久子
 
 7月から一般礼拝では、旧約聖書の創世記からアブラハムの物語に、共に耳を傾けております。アブラハムの信仰を辿るうえで助けにしていますのは、森有正先生(哲学者・フランス文学者。故人)の言葉です。今は講演集「アブラハムの生涯」を繰り返り読んで黙想を深めています。

 アブラハムは、日本では知らない人が多いと思いますが、キリストの教会は、マタイによる福音書の冒頭「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1・1)とあるように、キリストの先祖、信仰の父として尊敬しています。アブラハムはユダヤ教徒にとって信仰においても民族においても先祖です。イスラム教徒にとって最初の大預言者として重んじられています。アブラハムは教祖でもなく、宗教を開いたわけでもなく、中近東世界を歩き回っていた一族長にすぎませんでした。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の教徒が自分を信仰の先祖として仰ぐことなどは全く知らず、キリストの福音を知らず、律法を知らず、コーランも知らず、異教の中でまことの神を仰いで生きた一人の人でした。自分を選び、祝福の源としてくださった唯一の神に聞き従った人でした。彼の歩みに、わたしたちは、神信仰の本質的なものを見ます。

 創世記第11章31節を読みますと出発はアブラ(ハ)ムの父テラの代から始まりまったことがわかります。カルデアのウル(月を神として拝んでいた社会)からカナンを目指しての旅でしたが、そこにはまだ神の約束はありませんでした。ハランに着いたテラの一家は、そこに滞在することにしました。おそらく数十年過ごした頃に、アブラ(ハ)ムに神の言葉が臨みました。
 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。」(創世記12・1〜2)。
 アブラハムはこの神の約束の言葉に聞き従って出発しました。

 森有正先生は、著書の中で、ご自分が真摯に聖書に向き合って霊感を受けた言葉を語ってくれています。このアブラハムの出発の出来事から、出発とは、約束の地とはどういうものか、思い巡らしておられます。本の一部ですが、分かち合いたいと思います。
 アブラハムの一家の中に、ウルの生活が、無意味なもの、あるいはいたたまれないもののようになってきた、そういうものがあったのではないか、というのです。わたしたちもまた同じように、一つの世界に安住しているが、一方で「今、こういうことをしていていいのか」と考えることが起こってくる。これは若い人とは限りません。何かをしたいと思う、身をささげたい、憧れといってもいい、そういう内的な促しが起こってくる時がある。アブラハムにもそれがあったのではないか。神の召し出しによって、アブラハムは「約束の地」へと出発することができた。神を自由に信じ、神に仕える世界へと出発したのではないか、というのです。
 なるほどと思いました。自分自身が洗礼を受けたとき、献身した時のことを想い起こしました。神の召し出しは安住を覆すほどのものでありますが、神の約束に真実を見たものはそこに向かわざるを得ない。信仰は約束の地への出発という姿をとっていくことが、わかってきました。

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