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2014年 9月 1日発行 No555 

アブラハムの信仰(3)

                            金田 佐久子
 
 主日礼拝で旧約聖書から連続して説教するのは今回が初めてです。7月から創世記のアブラハムの物語から御言葉を説き明かしております。説教に先だって準備をするわけですが、聖書のおもしろさにドキドキワクワクしたり、神の配慮の深さにただ沈黙するほかない思いにさせられたり、旧約と新約との違いをまざまざと感じたりして、生き生きと御言葉に聴いています。躍動する神の御言葉を、何とかして皆様にお伝えしたいと願っています。

  信仰と信頼
 説教のためにいろいろな資料を読みますが、先月の巻頭言に引き続き、アブラハムの信仰を辿るうえで助けにしている森有正先生(哲学者・フランス文学者。故人)の言葉から、信仰と信頼について紹介したいと思います。わたしたちが普段それほど区別していない言葉だと思いますが、森先生は、先生なりに使い分けておられるのです。信仰とはどういうことか、考える手がかりになると思います。こういう文章です。

 “信頼という言葉は、皆さんよくお使いになるでしょう。と同時に信頼を裏切られたということをおっしゃるでしょう。信仰は、裏切られたということはないのです。信頼という言葉は・・・あることと共に信用を置くということです。例えば私はあの人を信頼している。なぜかというとあの人は親切な心を持って、しかもお金持ちだから、困ったらお金をくれるだろう。・・・信頼ということは、究極に問い詰めていくと信頼する根拠をその人に持っているのです。・・・信頼するというのは、あてにするということが中に入っている。ですから信頼が裏切られたというのです。実は、あてにしていたものがあてにしていたとおりのものではなかったというだけの言葉です。・・・ところが信仰は全然違うのです。アブラハムは信頼でなくて信仰を持っていました。彼の妻が石女であるにもかかわらず、自分の子孫に対する神の約束を彼は信じました。・・・”(「アブラハムの生涯」より)

  信仰とは
 森先生の、信仰と信頼という考察に、深く人間を観察し、内省し、信仰を持って黙想しておられると感じました。わたしの信仰生活を省みてみると、森先生の言うところの「信頼」、つまり、何かをあてにする賭けのようなものとなっていたのではないかと示されました。取引をするように「こうしますから、こうしてください」と祈ったり、「神は祈りを聞いてくれない」と呟いたりするわたしでした。今でも、ともするとそういう思いがわいてきます。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で、アブラハムの信仰をこのように語ります。
 「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。」(ローマ 4・17〜19)(太字は筆者)
 この弱まることのない信仰とは、人間から生じるものではありません。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ 10・17)。アーメン。

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