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2014年 12月 1日発行 No558
西川口伝道50年記念特別礼拝説教要旨
「ニコデモとの問答」
山浦 玄嗣 先生
ふるさとの仲間にふるさとの言葉で、イエスの心を伝えたいと子供のころから思っていました。我々が教会で与えられているのは新共同訳聖書です。でも、これを私の周りにいる気仙(岩手県気仙地方)の仲間たちにそのまま読んでも全然通じないのです。「これはちょっとうまくないな」と思い、私も及ばずながらギリシア語の聖書を一生懸命読んで、ギリシア語も勉強しました。そしていろいろなことが分かってきました。それで何とか訳したのがケセン(気仙)語訳聖書です。皆さんにとても喜んでもらいましたが、さらに日本中の方々にあまり抵抗なく楽しく読めるように、今度はケセン語をセケン(世間)語にして訳した聖書がこの本で、「ガリラヤのイェシュー」(日本語訳新約聖書四福音書)といいます。イェシューとはイエスの本名です。ヘブライ語ではイェホシュアーです。これはエルサレムの標準語で、東京弁みたいなものです。ガリラヤ地方は東北地方みたいなものです。イエス様はうんと訛っていたのです。ガリラヤ地方ではイェシューと呼ばれていたそうです。
さて最初に風の話をしたいと思います。高気圧と低気圧の気圧の差によって空気が移動することを、風と申します。でも2千年前の人々にはそういうことがまったくわかりませんでした。どうして風が吹くのだろう。これは神様の息だ。だから吐く息・吸う息で風が吹くのだ、と昔の人は思った。神様がご機嫌悪いと台風になる。ご機嫌が良いとそよそよとやさしい風になる。風をギリシア語では「プネウマ」といいます。この風は神様の息ですから、プネウマは「風」であるし「息」でもあった。息をしているものは皆生きている。そうするとプネウマは「命」なんです。神様がアダムをお創りになったとき、赤土で泥人形を作った。鼻の穴から息を吹き込んだ。そしたらアダムは生きるものになった。プネウマが吹き込まれた。だからアダムは生きるものになった。プネウマは「命」です。命あるものはものを考えます。だからプネウマは「心」であり「魂」です。これらのことを当時の人はまったく区別していませんでした。我々の常識から考えると途方もない考えです。我々は、心も息も呼吸も風も、全部別々の単語で別々の概念としていますが、昔の人は全部プネウマだと思っていた。このことを頭の中に入れておいてください。
先ほど金田先生がお読みなったところを私なりに翻訳したものを朗読します。
“「そなたにはキッチリシッカリ言っておく。お水を潜ってこれまでの生き方に死んだその上で、神さまの息吹の中に生まれねば、神さまのお取り仕切りには加われない。
親の体から生まれたのはこの体。神さまの息が風となり、吹き寄せて生まれたのはこの思い。・・・
神さまの息は、その胸の思いを乗せて風となり、思いのままに吹いてくる。そうしてそなたはその声を聞く。だけれども、そよ吹く思いのその風が何処から吹いて来て、何処に向かっているものか、そなたがわかっていないのだ。いいかね、あの風の生み出す思いは、すべてこうしてなるものだ」”(「ガリラヤのイェシュー」 ヨハネ3・5〜6、8)
我々は心と体を持っています。この体は親からいただいたものです。では「お前の心の中に胸の中に燃えているお前の憧れ、お前の理想。お前の志、それはどこから来たのだ?」とイエスは言います。親から来たのか。いいえ、そうではありません。どこからか来たのです。人は「俺の人生はこのために捧げたい」、あるいは「今、俺はこれをしなければならないのだ」という強い憧れや理想や志を抱くものです。でもそれはどこから来たのでしょう。分かりません。いきなり湧いてきたのです。イエスは言います。「それは神様の思いが神様の風となって吹いて来て、お前の心の中に吹き込んだのだ」。全部プネウマです。神様のプネウマ(思い)がプネウマ(風)になってお前の中のプネウマ(心)に吹き込んでお前のプネウマ(思い)になったのだと。「ただお前は、お前が抱いている胸の思いがどこからやってきたものか、わかっていない。そしてその思いはお前をどこに連れて行こうとしているのか、それをわかっていないのだ」と。
「キッチリシッカリ言っておく」。これは「俺の言うことをよく聞いて、忘れるなよ」という意味です。「忘れるな。いいか、言っておくぞ。お前の胸の中に湧いてくるその憧れ、その思い、それは神様から来たのだ。だから心を静めて、自分の心の中に燃えている思いの声にじっと耳を澄ませ。それは神様の声だ」と言っているのです。これは恐ろしいことです。「自分の力で考えろ。偉い人がこう言ったから、無批判に盲従するのではなく、自分の心の中に湧いてくる思い、それを大事にしろ。それは神様から吹いてくる風だ。それに徹底的に聞け」と言っているのです。これは素晴らしい言葉です。
だから、そこでその裏返しがあるわけです。「自分の心の中に湧いてくる素晴らしい思い、『これは神様が私を呼んでいらっしゃるのだ。このために一生懸命働けば、きっと神様は喜んでくださるだろう』。そう思って、立ち上がれ。でも忘れるな。お前さんの心の中に吹いてくるプネウマが神様の思いであるように、人の心の中に吹く思いもみんな神様の思いなのだ」ということです。
人間には皆いろいろ歪みがあります。それぞれ性格があります。教育の違いもあれば、環境も違うし、経験が全部違いますから、一人ひとりがさまざまな個性を持っています。神様の思いが吹き込んでも、曲がった自分なりにそれをとらえるわけです。そうするとその人の思いが、100パーセント神様の思いということにはなかなかなりません。皆そうであるわけです。自分と考えの違う人がいるわけです。でもその人の思いは神様から来たプネウマなのだとイエスは言うわけです。「だからそれに真剣に耳を傾けろ」というわけです。だから、自分と考えの違う人を「あれはおかしい」と言うな。人はそれぞれぐにゃぐにゃ曲がった存在なのだから、その曲がりをお互いよく話し合って見つめ合って受け入れ合っていくと、そのお互いの曲がりがほぐれて、次第にまっすぐになり、「ああ、そういうことでお前さんはそういうふうに思ったのか。俺はこうだったんだよ」、「ああ、そうかね」ということがお互いに分かり合うようになる。そのときに、人と人とはお互いに相手を本当に受け入れ合うことができるようになる。そこに真の幸せが生まれるというのです。
神様の思いをのせる神さまの息吹。我々の心の中に吹いている。俺の心の中にも、君の心の中にも吹いている。そのことをお互い、全身全霊を向けて、あなたの胸の中に吹いている神様のプネウマの声を聞こう。君も聞いてくれ。お互いが受け入れ合えば幸せ。これこそが「神さまのお取り仕切り」(新共同訳聖書では「神の国」と翻訳)に入ることなのであります。(文責・金田佐久子)
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