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2015年 1月 1日発行 No559 

「いつものように」

                            金田 佐久子

 主の年2015年を迎えました。新しい年も主なる神の恵みに依り頼んで歩みます。旧約聖書の哀歌第3章22節・23節にこういう御言葉があります。

  主の慈しみは決して絶えない。
  主の憐れみは決して尽きない。
  それは朝ごとに新たになる。

 朝ごとに新しく主の慈しみと憐れみが注がれるので、神の民である教会は新しくされて歩めるのです。何とありがたいことでしょうか。この主にある新しさの中で一年の区切りを受けとめ、年の初めに思いを新たにさせていただきます。

 洗礼を受けて救い主イエス・キリストのものとなったわたしたちです。ですから「キリスト者」といいます。もともとは主の弟子たちが、教会の外の人々から「キリスト者」と呼ばれるようになりました(使徒11・26)。それほどまでにひたすらキリストに従う姿が他の人たちに明らかになっていたのでした。ちなみに「クリスチャン」より聖書のとおりの「キリスト者」が定着したらよいと思い、意識して口にしています。
 キリスト者である主イエスの弟子は、師匠である主イエスのまねをして生きていきます。主イエスは信ずべき御方ですが、同時に、神の前にわたしたちがどう生きるかのお手本でもいらっしゃるのです。
 今回は主イエスの「いつもの」御姿に目を留めてみたいと思います。ルカによる福音書第4章に、主イエスの故郷ナザレの会堂での出来事が記されていますが、初めにこのように語られています。

 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。(16節)

 安息日の礼拝は、今日のキリストの教会にとっての主日礼拝に相当します。主イエスは、子どもの頃から人々と共に「いつものとおり」礼拝をささげる礼拝者でいらした。わたしたちもまた、主イエスのように「いつものとおり」子どもも大人も一緒に主日礼拝をささげていきます。
 ルカによる福音書第22章39節・40節にはこうあります。

 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。

 この祈りの後で、主イエスは当局に逮捕され、十字架の苦しみと死とをその身に引き受けられます。父なる神に切に祈り、神の御心にすべてをお委ねになられたからでした。その祈りは「いつものように」「いつもの場所」での祈りだったのです。

 西川口教会が現在、中長期的に取り組んでいる子どもも一緒の礼拝、会堂建築の検討は、今年の教会の御言葉のとおり、主から愛と平和をいただき、聖霊による一致の中で進めていかなければなりません。十字架の苦難と死を前に、主イエスの祈りは、いつものように、いつもの場所の祈りでした。主イエスに倣い「いつものように」礼拝と祈りとに生きる時、いざという時にも力を得て立ち向かうことができるのです。目新しいことは何もありません。主からの新しさによってこの年も歩みます。

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