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2015年 3月 1日発行 No561 

危機を生き延びる祈り

                            金田 佐久子

 今年のレント(受難節)は2月18日から始まりました。イースター(復活日)は4月5日です。わたしたちの救い主イエス・キリストが引き受けられた苦難、十字架の死、葬り、そして復活の朝へと続く救いの出来事を思い起こし、祈りを深めたいと思います。

 2月、わたしは仙台市の作並温泉で開催された研修会「第41回婦人教職のつどい」に参加しました。東日本大震災から4年になろうとする時、被災地での開催も4回目となりました。奥羽・東北教区からの参加者があり、出会いを喜びました。
 講師は左近豊先生(日本基督教団美竹教会牧師、聖学院大学・東京神学大学で教えておられる)、講演題は「傍らにあっての祈り〜旧約聖書に学ぶ祈り」でした。とても意義深い講演でしたので、その一部を分かち合いたいと思います。

 「祈りは神との格闘である」(フォーサイス)。祈りが「粘り強さ」と「しつこさ」をもってなされること、執拗なまでに食らいつくような祈りがあることを聖書から示してくださいました(ヨブ記第19章6節「知れ。神がわたしに非道なふるまいをし」、哀歌第2章5節「主はまことに敵となられた」)。現在、祈祷会で詩編学んでいますが、神に迫るような祈りと出会っています。このような祈りを、神は受けとめてくださると知りました。
 次に「混沌の中での祈り」でした。わたしたちは、神の大いなる救いの物語(創造の初めから、世の終わりのキリストの再臨を待望する物語)の中に生かされている。しかし、日々わたしたちは混沌の力に脅かされ、危機に翻弄されながら生きている。3・11(2011年東日本大震災)のような出来事、予期せぬ死の病の宣告を受けた時、存在が根底から揺さぶられるような時、人は時間の枠組みも破綻し、人生が中断し、言葉を発することもできず、ただ生きることができるだけの自分となることがある。聖書にはそのような者たちの祈りがある、というのです。詩編88編最後の19節「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」が、ヘブライ語原文では「闇!」で終わる。哀歌の最終行(第5章22節「あなたは激しく憤り わたしたちをまったく見捨てられました」)もちぎり取られたかのように終わっている。嘆きから賛美に終わらず、何も解決せず、希望の欠片も見いだせない終わり方であること。そのようにして混沌の中を生き延びた信仰共同体があったという事実に、慰めを感じました。この混沌の物語が、わたしの同伴者になってくれるという思いでした。どんな思いも言葉も臆することなく神に注いでいくとき、祈ることで人は生き延びることができるのだと知らされました。

 「婦人教職のつどい」の後に日本基督教団大船渡に行く訪問も、3回目となりました。牧師の村谷正人先生には毎回お世話になっています。火曜日の夜に着いて、翌日午前中は主なところを見学、午後の祈祷会に参加して帰路に着いています。2年前は、村谷先生が祈祷会を始めたばかりで参加者は他におられませんでした。昨年は教会の方数名がお出でになっていました。今回は祝日でもあり、教会員で初参加の方もおられ、一番人数が多い祈祷会になった、ととてもうれしいことでした。ここにも教会があり、祈る人たちがいます。祈りの恵みをたくさんいただいて帰ってきました。

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