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2015年 9月 1日発行 No567 

いのちの流れのほとりに

                            金田 佐久子

 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
(詩編1・2〜3)

 主なる神の憐れみによって、今年の厳しい夏の暑さにも耐えて、9月を迎えることができました。
 西川口教会では9月第1日曜日を「振起日」として「夏休みも終わり、改めて礼拝に励もう!」と、励まし合うときとしてきました。今年も、9月6日の一般礼拝を子供たちと一緒にささげた後、楽しくスイカ割りをしたいと思います。
 翌週の9月13日は、敬老祝福礼拝と愛餐会を予定しています。今、日本は超高齢社会となりましたが、西川口教会では祝福対象年齢はずっと変わらず、70歳以上の方々を祝福しています。いのちの神の守りを感謝し、祝福の日々をお過ごしになれますように、との祈りを込めて過ごします。

 ガリラヤの湖のほとりで、復活の主イエスが弟子のペトロに告げられた御言葉があります。
 「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21・18)。
 やがてペトロが殉教し、死においてすら神の栄光を現わすことを暗示している言葉です。
 これは、実に味わい深い言葉であると思うのです。年老いていく父との暮らしも約20年となりました。月に2、3回高齢の教会の方々をお訪ねして、お話を伺い、祈ります。若い時には、行きたいところへ行けました。けれども年を重ね、体が弱ってきたり、病を得たりすることがあります。それは、望んでいないところに連れて行かれるようなものです。また私たちの人生においては、高齢になることばかりではなく、思いもよらないところに追いやられるような出来事が起こります。

 敬老祝福の礼拝では、詩編第1篇を皆様にお届けしたいと思っています。冒頭に掲げましたのは、「こういう人がまことに幸せな人なのだ」という御言葉です。昼も夜も主の教え、主の言葉を口ずさむ人です。その人は豊かな水の流れのほとりに植えられた木のようです。時が来れば、必ず実を結ぶのです。決して葉がしおれることはないのです。「植えられた木」とは「移植された」ということです。木が自分で移動したのではないのです。神が、流れのほとりに移し替えてくださったのです。実を結ぶために、葉がしおれることのないために。
 しかし、神が植えられるところは、わたしたちにとって好都合なところばかりとは限りません。行きたくないところであることもあります。けれども、大切なのは、この神の流れに自分が根を下ろしているかどうか。行きたくないところに連れて行かれたとしても、神のいのちの流れはあります。神が流れのほとりに植えてくださったからです。その流れとは、主イエスがお語りくださった永遠のいのちに至る水なのです。
 「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4・14)。アーメン。
 
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