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2015年 10月 1日発行 No568
今こそ、父を礼拝する時
金田 佐久子
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。(ヨハネ4・23)
2012年7月から、2か月に1度のペースで、隣の草加市と川口市にあるキリスト教主義社会福祉法人(高齢者介護施設)の朝の礼拝で奉仕しています。草加の施設において、朝9時30分から30分間の礼拝をささげます。そして車で移動して、川口の特別養護老人ホームでの礼拝は10時40分から30分間です。年に数回の奉仕ですが、わたしにお声をかけ励ましてくださる方、祈りで支えてくださる方がおられます。「西川口だより」をお渡しして、ささやかな、しかし主にある交わりに共に生かされて、わたしも励まされています。
先月はちょうど敬老の日(9月21日)が施設での礼拝奉仕の日となりました。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5・8)。
この聖書の言葉中心に説教しました。主イエス・キリストに結ばれていることが決定的なことであり、暗闇そのものであったわたしたちが、光そのものと変えられ、さらに光を放つものとされた、と語りました。
説教の講壇は高いので礼拝に集う方が良く見えます。礼拝中、上半身を絶えず揺らし、腕を常に伸ばしたり縮めたりしながら座っている方がありました。「どうして絶えず動いておられるのかなぁ」と思いました。この礼拝には、介護が必要で施設に入っておられる方々が集うのですから、賛美や祈りの声も小さく、説教に対する反応がよくわからないのは当然なのです。しかし、わたしは説教しながら「自分の言葉がどれだけ届いているのだろうか」とふと思ってしまいました。そんなわたしの疑いの心を打ち砕き、取り去る小さな出来事が起こりました。
礼拝後に体操の時間があり、その後解散となりますが、そのとき挨拶を交わしたり、求められた時にはお祈りをしたりしています。わたしが挨拶を終えてカバンを取り帰ろうとしたとき、「先生・・・」と消え入りそうな小さな声でわたしを呼ぶ人がいました。振り返ってみると、先ほどの礼拝中に体や腕を動かし続けておられた方でした。「はい。何でしょうか」と返事をして傍らに座りましたところ、その方は静かに涙ぐみながら「わたしの子が『ひかりの子幼稚園』に通っていました・・・」とおっしゃいました。わたしは頭をガツンと叩かれたように思いました。「神はわたしの心をご覧になっておられると」恐れを感じました。説教の言葉が届いているかと疑ったその方ご自身から、言葉は届いていたことが示されたからです。涙の訳はよく分からなかったのですが、主なる神の慰めと平安をお祈りし、握手をしてお別れしました。
礼拝を礼拝とするのは、聖霊のお働き、神の真理です。人の業によるのではありません。同時に、父なる神が求めておられるのは、礼拝者です。神のみが礼拝をまことの礼拝としてくださると信じ、神を礼拝する者たちを、神は待っておられるのです。
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