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2015年 11月 1日発行 No569
神の業が現れるため
金田 佐久子
11月の最初の日曜日は、日本基督教団の行事暦で「聖徒の日」と定められています。西川口教会では毎年この日に召天者合同記念礼拝をささげます。地上の生涯を終えて、神のみもとに召された教会員と関係者の皆様方を偲び、ご遺族の方々と共に主なる神を礼拝します。長年に渡り西川口教会で教会生活を過ごされた兄姉と、地上の生涯の終わりの日々に神に出会い、救われた兄姉も多く与えられたと思います。
さて、先月、以前から興味がありました「がん哲学」を提唱し実践しておられる樋野興夫先生の出版記念講演会に出ることができました。
1年半ほど前から、教団出版局の月刊誌「信徒の友」に、樋野先生が実践しておられるがん哲学外来やメディカルカフェの参加者の声が紹介されるようになりました。現在は「わたしのがん体験記」という連載で続いています。非常に心惹かれるものがありました。教会員の中にもこの病になった人がおり、病になったことがきっかけで信仰を求め、教会に来られ、救われた人も何人もおられたからです。その中には地上の生涯を終えた方々も多くおられます。
今やがんは珍しい病ではなくなりました。日本人の2人に1人はがんになります。しかしそれは統計のことで、いざ自分や家族に起こると、心穏やかではいられなくなるのです。そして当事者や家族と共に歩む牧師も、実は、当惑していたのでした。
樋野先生の著書にこうありました。
“人間は誰でも必ず死ぬ。その事実がわかっていながらどうしても「明日自分が死ぬ」とは思えません。…ところががんになると様子が違ってきます。突然、自分の死がリアルに感じられるようになります。…「がん=死」という図式が頭をよぎります。そして人は、生きる基軸を探し求めるようになります。「自分は何のために生まれてきたのか」「残された人生をどう生きたいのか」「そのために自分は何をすればよいのか」…
人間には一人ひとり、その人に与えられた役割や使命がある。たとえ生後2時間で亡くなった赤ん坊であってもそのことに変わりはない。生まれてきたことや、生きていたことが残された者への贈り物となる。…大事なことはそれに気づけるかどうかです”(「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい」より)
最近の著書「こころにみことばの処方箋」の第1章では、ヨハネによる福音書第9章1節から3節まで引用され(さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」)、こうありました。
“なぜあなたががんになったかは、だれにもわかりません。… がんになったのはあなたのせいではありません。だれのせいでもありません。聖書は、その問いかけに「神のわざがこの人に現れるため」と言っています。これからあなたがどう生きるのか、どんなわざをなしていくのか、それが問われているのです。”
主イエスのお言葉、「神の業がこの人に現れるため」を、くりかえし心に語り聞かせたいと思います。
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