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2016年 1月 1日発行 No571 

神の国と神の義を

                            金田 佐久子

 今年の西川口教会の御言葉は、マタイによる福音書から選びました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6・33)これは、昨年7月に開催された記念すべき第40回西川口教会アシュラムにおいて、わたしに与えられた御言葉の一つです。今年の主日礼拝ではマタイによる福音書から説教したいと考えています。山上の説教の主イエスの言葉を深く味わいたいと願っています。

 今年の御言葉の直前に語られている主の御言葉も合わせて読みたいと思います。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイ6・31〜32)
 主イエスは、少し前のところで、こうも語っておられます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6・8)。
 「あなたがたの父」つまり、わたしたちの父となってくださる方、天におられる父なる神は、わたしたちが生きていくためになくてならぬものをご存じでいてくださるのです。
 しかし、ともするとわたしたちは、まるで神がご存じでないかのような祈りをしてはいないでしょうか。「あれをしてください」「これをください」と。主イエスは思い悩みに目を奪われているわたしたちの心の向きを変えようとなさいます。「これがなければだめだ」とか「あれをしなくてはいけない」と、思い込んでいたり、決めつけたりしている心を、神と国と神の義へと向けるようにと言われます。

 「まず神の国と神の義を求めること」、どうすればそれが可能でしょうか。具体的に何をすればいいのでしょうか。以前、信仰書から教わりわたしも折々に実践している、簡単な一つの答えを紹介します。それはできるだけ集中してゆっくりと祈りを唱えることです。「主の祈り」、あるいは「使徒信条」、あるいは、詩編の言葉、またはフランシスコの「平和の祈り」など、暗記しているならそれを唱えることです。そしてその言葉が何を伝えようとしているのか、自分の存在をもってひたすら耳を傾けることです。
 少し前ですが、思い悩みのためになかなか眠りにつけなかったとき、この助言を想い起こして、詩編23篇を唱えました。「主は羊飼い、私には何も欠けることがない・・・」。有難いことに詩編23篇は暗記していますので、ただただゆっくりと唱え続けました。御言葉をかみしめていくうちに、「そうだ、わたしは、羊飼いである主に守られ、支えられ、導かれている主の羊なのだ」と平安が与えられ、いつしか眠りについていました。
 御言葉と祈りが神の国と神の義を求める手がかりとなります。

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