トップページに戻る西川口だよりに戻る

2016年 2月 1日発行 No572 

イエス・キリストを信じます

                            金田 佐久子

 今年のイースター(復活日)は3月27日です。クリスマスと違って、キリストの復活をお祝いするイースターは毎年日付が変わります。それはイースターが「春分の日の後の最初の満月から数えて最初の日曜日」と定められているからです。
 イースターに先立つ40日の期間は「レント」(受難節)と呼ばれ、イエス・キリストの受難を思いながらイースターに備える時とされています。主の日(日曜日)はレントに数えませんので、レントの始まる日はイースターの7週前の水曜日となります。その日は「灰の水曜日」と呼ばれ、今年は2月10日です。まもなくレントです。わたしたちを救うために来られた主イエス。その主が歩まれた十字架への道を想い起こします。忘れてはならないのは、十字架の出来事は勝利の復活の命へ通じる道であるということです。苦難の先には神の栄光があるのです。

 本年の主日礼拝ではマタイによる福音書から説教を始めました。その冒頭、第1章1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。教会での生活が長くなってくると「イエス・キリスト」と語っても聞いても当たり前となっていると思います。けれどもこれは福音書の著者が教会の信仰に立ち、存在を賭けて書いている言葉なのです。同じマタイ福音書第1章16節にはこうあります。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(太字は筆者)。イエスがお出でになるまではメシア(キリスト)と呼ばれる人はいなかったのです。「イエス・キリスト」とは「このイエスこそがキリストである」という信仰の告白なのです。「イエス・キリストを信じます」と言うのは「イエスがキリストであると信じます」という意味なのです。

「キリスト」といえば、今では主イエスを指す固有名詞のようになっています。イエスは固有名ですが、キリストは姓ではありません。「キリスト」とは称号のようなもので、本来は普通名詞であり、「油を注がれた者」を意味するヘブライ語「メシア」のギリシア語訳なのです(新約聖書はギリシア語で書かれている)。預言者・祭司・王が神から特別の務めに任じられるとき油を注がれました。その意味では預言者・祭司・王はメシアです。やがて「メシア」は「神が必ず遣わしてくださる約束の救い主」を指す言葉となりました。主イエスがお生まれになった頃「メシア(キリスト)」にはそのような期待が込められていたのです。

 マタイ福音書第16章を開きます(13節以下)。主イエスは弟子たちに尋ねられました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。主イエスはその答えを喜ばれました。さらに、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められました。それを聞いたペトロは「主よ、とんでもないことです」と言いました。
 まことにとんでもないこと! しかし確かに実現した神の出来事でした。復活の主イエスが弟子たちを訪れ、再び招き、聖霊を注がれ、弟子たちと初代の教会は、死に打ち勝ったイエスこそがキリストであるとの信仰に立ったのです。ハレルヤ。
 
トップページに戻る西川口だよりに戻る