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2016年 4月 1日発行 No574 

いのちの造り主(ぬし)なる神

                            金田 佐久子

 今年のイースター(復活日)礼拝は3月27日で、今は復活節の日々を過ごしています。

 先日聖餐のためパンを買いに行きましたら、お店にパンの情報紙が置いてあり、そこに「春のおとずれ イースターで祝おう!」とあったので、思わず手に取り、1部いただいてきました。紙面はイースターの特集で、いくつかの国のイースターパンの紹介があり、最近はテーマパークでイースターのイベントが催されていること、そしてこのような説明もありました。
 “イースター(復活祭)とは、 十字架にかけられたイエス・キリストが三日後に復活したことを祝う、キリスト教圏の大切な祝日。長い冬が終わり、春の訪れを祝う祭りという意味もあります。復活のシンボルは卵や多産のうさぎ、鶏、犬など。それらを使った料理やお菓子がお店に並びます。”
 3月や4月に春が来るのは北半球で四季のある地域に限られますが、つぼみが膨らみ、花が咲き、新芽がやがて新緑となる様子に、いのちの輝きを思い、喜ばしく感じるのは人の共通の感覚かもしれません。
 情報紙には「イースターは春の訪れを祝う祭り」とありました。それを読んで思いました。それでは、季節を巡らせ、春を来らせる方はどなたでしょうか。いのちそのものはどこからきたのでしょうか。植物にしても、生き物にしても、人間にしても、いのちの造り主なる神がおられるのです。イースターが日本に定着するのはうれしいですが、キリストの教会こそイースターの意味を知らせなくてはと思わされました。

 2016年の西川口教会の聖句として、マタイによる福音書第6章33節の御言葉を掲げました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。4月から始まった新年度もこの主イエスの命令と約束を握って歩みます。この御言葉を繰り返し心に語り聞かせ、刻んでいきたいと思います。
 皆さんにとって、この御言葉はどのように響きますか。
 お気づきの方もあると思いますが、この御言葉は、わたしたちの中にしっかりと根を下ろしてしまっている価値観と全く逆なのです。ですから、この御言葉はわたしたちにとって挑戦となります。「本当にこの御言葉を信じているのですか」と。
 なぜなら、実際、わたしたちは生きるために必要なものを得ようと絶えず努力し、働き、闘っており、もがき苦しんでいるからです。必要以上のものさえ獲得して、それで自分のいのちも暮らしも確保されると思い込んでいます。物だけではなく、人にもしがみついています。自分が守られるように、安心したくて、親に、きょうだいに、夫に、妻に、子に、親しい友に、依存しています。そのように何とかしようとあくせくし、多くのことで心が占められてしまっている「わたし」であり「あなた」ではないでしょうか。
 主イエスは、その「わたし」であり「あなた」がいのちの造り主である父なる神によって造られたことを知り、本来のいのちを十分に生きることができるように、方向転換を求めておられます。わたしたちに必要なものは、神のご支配の中で与えられると信じるように招かれます。何よりもわたしたちに必要なものは、よみがえりの主イエス・キリストご自身なのです。

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