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2016年 5月 1日発行 No575
聖霊ーうめきをもって執り成す神
金田 佐久子
2016年4月14日午後9時26分に、熊本県熊本地方に最大震度7の地震が発生しました。さらに4月16日午前1時25分、より規模の大きい(阪神淡路大震災と同程度)震度6強の地震が発生しました。これが「本震」と判断されました。死傷者が出て、建物の倒壊、土砂災害が起こり、道路や鉄道が不通になり、多くの人々が避難しています。大分県が震源の地震も起こり、強い余震が続いて収まる気配がありません。被災された人たちのつらさ、厳しさ、苦しみはどれほどのものだろうと思わされます。
熊本、大分にある教会の状況を、日本基督教団のホームページから知ることができます。また他の教団の牧師からも現地の教会の被災の情報が入りました。
ただ神の憐れみを祈るばかりです。言葉にならない思いで祈るなかで、聖書の御言葉を思い起こしました。
霊″も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊″自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマ8・26)
そして、竹森満佐一牧師のこの箇所の説教の言葉を思い出しました。『ローマ書講解説教U』より、引用します。
“切なるうめきであります。それは言葉になりえないのであります。…御霊(みたま)が、言葉にしえなかったのであります。…御霊の祈りがわれわれに分かるわけもないかも知れません。しかし、切なるうめきというのは、何を指すのでしょう。被造物は救いを待ってうめくのです。信仰者も子たる身分を授けられることを、待ってうめいているのです。それならば、御霊の切なるうめきも、決してただ言葉にならないある声ではなくて、うめくというほかはないような嘆きであったのではないでしょうか。祈ることも知らずに、救われたことを十分に感謝もしないでいる人間のために、神にとりなすことは、一切をわきまえている御霊であるがゆえに、一そう大きなうめきになったにちがいないのです。それは、御霊すら、流暢な言葉にはしえないもの、であったにちがいないのであります。
最も困難な立場は、とりなすことであります。主イエス・キリストは、罪人のためにとりなすために、十字架にかけられたのであります。御霊がまた、とりなす立場に立って、言葉にあらわせぬ切なるうめきをもってとりなして下さることは、主イエスのことを思うにつけても、無限の慰めと感動とを与えてくれるものであります”
5月15日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。二千年前、祈る群れに聖霊が注がれて、キリストの体なる教会が生まれました。教会は聖霊の執り成しによって支えられてきました。一切を御存じの聖霊の神は、被災した人々のためにも、切なるうめきをもって執り成してくださると信じます。
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