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2016年 6月 1日発行 No576
聖霊・慰め主なる神
金田 佐久子
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。(マタイ5・4)
これは、主イエス・キリストの言葉です。初めて聞く人は驚くのではないでしょうか。どうして悲しむ人たちが幸せだと言えるのでしょう。
今年、主日礼拝ではマタイによる福音書から説教をしています。第5章に入りました。第5章から第7章までが一つの大きなまとまりで「山上の説教」と呼ばれています。一つひとつ、わたしたちをハッと立ち止まらせたり、うなずかせたり、神に対し、人に対してどのように生きていくべきか導いてくれるキリストの言葉が語られています。この「山上の説教」の最初に「八つの幸い」が語られています。そのうちの一つが、冒頭の聖書の言葉です。
悲しむ人々がなぜ幸いなのでしょうか。その人たちが慰められるからです。これは受身形で、神の御業を示す受け身です。「神がその人たちを慰めてくださるから」ということです。神は悲しむ人々を放っておくことはなさらないばかりか、慰めをもたらしてくださるのです。
新約聖書では「慰め」についてどのように語られているのでしょうか。新約聖書はギリシア語で書かれています。動詞「パラカレイン」が「慰める」、名詞「パラクレーシス」(パラカレインの名詞形)が「慰め」と訳されています。パラというのは、「傍ら」、「すぐそば」という意味の言葉です。カレインというのは「呼ぶ」、「招く」という意味の言葉です。ですから「パラカレイン」は、「傍らに招く」、「そばに呼ぶ」という意味になります。
傍らに読んで話をするとなると、考えられる話の内容から、特に「説き勧める」とか「勧告する」という意味になりました。人の傍らにわざわざ行って語ってあげる必要がある言葉、明らかにその一つは「慰め」です。コリントの信徒への手紙二第1章のように「パラクレーシス」は「慰め」という意味でも用いられるようになりました。
神が慰めてくださるとは、神がわたしたちの傍らに来て、語ってくださるということ。もうわたしたちは一人ぼっちではありません。
パラカレインという動詞から生まれた大切な名詞があります。「パラクレートス」という言葉です。「助けが必要な人に呼ばれて助ける人」です。ヨハネによる福音書第14章16節・17節「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」。こうして神は聖霊を遣わしてくださいました。この「弁護者」は「パラクレートス」を訳したものです。この言葉は「助け主」とも「慰め主」とも訳せるので、そう訳している翻訳もあります。(参考 加藤常昭著「慰めのコイノーニア」)
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