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2016年 7月 1日発行 No577
「だから、こう祈りなさい。」
金田 佐久子
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、・・・』(マタイ6・8〜9)
二十数年前のことです。1990年の春、西川口教会は島隆三先生を主任担任教師として、島静江先生を担任教師としてお迎えしました。そのときわたしはこの教会の信徒でした。牧師の交代は教会にとって大きな出来事です。わたしにとってもそうでした。「今度いらっしゃる新しい牧師先生ご夫妻はどのような方だろう・・・」と思い、「うまくやっていけるだろうか」と案じました。
島隆三先生は着任後、主日礼拝の説教を、マタイによる福音書第6章の主の祈りを説き明かすことからお始めになりました。そのことをとても印象深く覚えています。新しい牧師を迎えた教会の歩みを主の祈りから始める。主イエス・キリストが「こう祈れ」と教えてくださった祈りの言葉に共に耳を傾ける。それこそ信仰生活の基本なのだと知らされました。島先生が冒頭に掲げた主イエスのお言葉を説かれたとき、このように語られたと思います。
「わたしたちの父なる神は、わたしたちがまだ願う前から、わたしたちに必要なものを知っていてくださる。主イエスは『だから、祈らなくてもいい』とは言われず『だから、こう祈りなさい』と言われた。だから、わたしたちは主イエスのお言葉に従って、主の祈りを祈る。…」
説教を聞いていたときハッとさせられたので、覚えているのだと思います。それ以来「だから、こう祈りなさい」と言われた主のお言葉が忘れられないのです。耳に心地よい音色のようではなく、クラクションのように異質なものとして響いている感じなのです。
皆様はいかがでしょうか。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と聞いて、「だから、こう祈りなさい」と後に続くことに引っかかりませんか。どうしてわたしはここで引っかかるのか。恐らくわたしの中に「祈りとは、自分に必要なものをしつこく神に願い求めること」という考えが根深くあるからです。その背後には「自分が祈ったから祈りが聞かれる」という思いがあるのではないか。そのさらに奥には、結局は物事が自分の願うとおりになるように神様に働いてもらいたい、という自己中心があるのではないか。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われたら「それなら祈る必要はないではないか」と思ってしまう、そんなわたしに、島隆三先生を通して、主イエスが祈りの道を示してくださいました。
神は祈る前からわたしたちに必要なものをご存じであるのに、どうして祈りが必要なのでしょうか。主の祈りは天の父なる神への呼びかけから始まります。「天におられるわたしたちの父よ」。祈りは、わたしたちが神に向かって生きることです。顔を上げて、神の方へ向き直り、神を呼ぶ。神を呼ぶことは本来人にはできません。神の霊のお働きによります。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8・15)。神に向かって生きるようになるために、主の祈りがわたしたちのために与えられています。だから、主の祈りを祈りましょう。
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