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2016年12月1日発行 No582 

言(ことば)は肉となって

                            金田 佐久子
 
 神は御心に留められた 
 人間は肉にすぎず 
 過ぎて再び帰らない風であることを。
(詩編78・39)

 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ 1・14)

 2014年2月から、水曜日と木曜日の祈祷会で、詩編の学びを始めました。詩編は旧約聖書に収められていて、第150篇まであります。中断したこともありましたが、コツコツ続けて、先月第100回となり、この原稿を書いた週には、詩編85篇を読み終えることができました。
 取り組んでみて、改めて詩編の豊かさに驚いています。詩編は二千数百年以上前の信仰者たちの祈りの書ですが、今この時代、この国に生きるわたしたちにも、生き生きと語りかけてきます。詩編を読んでいると、人は昔も今もあまり変わらないと思います。どんなに物質的に豊かな暮らしをしていても、人間は人と人との間に生きていて、そこにある関わり―人間関係がこの「わたし」に喜びも悲しみももたらします。
さらに、聖書では神と「わたし」あるいは「わたしたち」との関わりが人間関係以上に問われています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23・1)と、主の守りを確信し満ち足りた賛美の告白もあります。一方で、計り知れない苦難―神の怒りとしか思えない―の中で、嘆きの叫びをあげる詩編もあります。「あなたはとこしえにわたしたちを怒り その怒りを代々に及ぼされるのですか」(詩編85・6)。神を「あなた」と呼ぶ関わりの中で声を上げています。
今のわたしは悔い改めや嘆きの詩編に心惹かれます。悲しみや嘆きを神に持っていくことができると知りました。無意識のうちに抑え込んでいた悲しみを神に申し上げることができると知りました。それには詩編を唱えればよい。詩編の祈りに心を合わせて「アーメン」と言えばよいのです。その叫びを神は聞いてくださる。そのとき、人は悲しみの中でも生きることができます。
もう一つ詩編から知らされたのは、昔も今も人は弱さ、もろさ、はかなさを持っている存在であることです。冒頭の御言葉「人間は肉に過ぎず」の「肉」とは、弱くてもろい人間存在を指す言葉です。この直前の詩編第78篇37節にはこうあります。「しかし、神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め 憤りを尽くされることはなかった」。人間の歴史は神に背く罪の歴史でありました。もし人が自分を弱く、もろく、はかない存在であると素直に認めることができるなら、神が人の罪を贖う救いを受けることができます。
神の時が到来し、「言」すなわち神の御子が、「肉」すなわち、弱くもろくはかない人間として、わたしたちの間に来てくださいました。この方は、すべての人の罪を贖う救い主。憐み深い神が遣わされた神の独り子。まもなくクリスマス。救い主イエスはお生まれになりました。

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