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2017年2月1日発行 No584 

渇きをいやす希望はどこに

                            金田 佐久子
 
 新約聖書のルカによる福音書第10章25節以下に「善いサマリア人」のたとえが出てきます。そのたとえが語られるようになったきっかけはこうです。
 ある律法の専門家がイエスを試そうとして質問します。「何をしたら、永遠の命をいただけるでしょうか」。イエスは「律法には何と書いてあるか。それをどう読んでいるか」と問い返され、その人は答えます。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」。イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とお答えになりました。しかし、律法の実行はたやすいことではありません。その人は「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねます。自分の愛すべき隣人はだれか、律法においてもその範囲は明らかではないからです。
 そこで、イエスはたとえをお語りになりました。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(以下略)」。
 イエスは問われます。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は答えました。「その人を助けた人です」。イエスは言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
 「わたしの隣人はだれか」との問いに、イエスは「だれが隣人になったか」と問い返されています。こうしてイエスは初めの問をひっくり返してしまわれました。「わたしの隣人はだれなのか」と問う人に「『あなたが』助けを必要としている人の『隣人となる』のだ」と言われます。当時、サマリア人はユダヤ人から差別され、互いに敵対関係にありました。イエスは意図的にサマリア人をたとえに登場させたのでしょう。敵も味方もなく困っている人に手を差し伸べるということです。
 旧約聖書イザヤ書第58章10節・11節に祝福の約束があります。「飢えている人に心を配り 苦しめられている人の願いを満たすなら あなたの光は、闇の中に輝き出で あなたを包む闇は、真昼のようになる。主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」。
 わたしが助けを必要としている人に手を差し伸べるならば、神は闇を光に変えられ、そのときわたしの渇きも癒され、それどころか、命の水があふれ出る泉に変えられる、というのです。闇に包まれたと思っていたこのわたしが、そうなるのです。教会もそうなるのです。
 隣人となること。何よりもまず、主イエスが、良きサマリア人のように、わたしのそばに来て、憐れに思い、救い出し、隣人となってくださった。そう信じています。だからこそ、この祝福を信じて、隣人となる愛に生きることができますように。

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