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2017年4月1日発行 No586 

「主なるわたしである」

                            金田 佐久子
 神はこのイエスを復活させられたのです。…あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(使徒2・32、36)

 2017年度がスタートしました。どんな一年となるのかわかりませんが、どんなときでも教会は主日礼拝をささげます。礼拝で、神の言葉が説かれ、聴かれます。それによってわたしたちは神の思いを知らされ、行くべき道が示されます。神の慰めと励ましをいただき、生きる勇気を与えられます。ですから神の言葉を取次ぐ説教はまことに重要で、正しく福音が説かれるために、牧師は兄弟姉妹の執り成しの祈りを必要としています。この祈りは各自のためにも必要なことです。なぜなら牧師の言葉を神の言葉として聴くために、聖霊のお働きを祈り求めなければならないからです。そのような祈りがささげられている礼拝では、まだキリストを信じていない人にも、きっと説教の言葉が届くと信じます。2017年度も主日礼拝のため、説教のため共に祈りましょう。
 先月の主日礼拝の説教で預言者エレミヤの言葉を紹介しました。礼拝の後に、感想を語ってくれた人がいつもより多くありました。心を動かされたのでしょう。このような言葉です。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである」(エレミヤ17・9〜10)。説教の学びで知ったルターの翻訳を紹介しました。最初の文をこう訳しています。「人の心は、つっぱっているか、いじけている」。この言葉も良く分かる、と感想をいただきました。思い当たるのです。人の心は、ひどく強気でいるか、そうでなければいじけている。このことをキリスト者の哲学者キェルケゴールが著書「死に至る病」の中で「強気の絶望」「弱気の絶望」として描いています。絶望は罪であり、絶望の行き着く先は滅び、死です。
 「心」と訳された言葉はヘブライ語の「レーブ」です。日本語の「心」はどちらかというと感情に重きが置かれますが、「レーブ」は感情よりも理性や知性、意志の働きに深く関わるものです。人格の中心にある、人間を人間たらしめる意志の力のことだと言われます。
 人の心が、人格の中心が、とらえ難く病んでいるというのです。そのため人は、自らを知ることはできなくなっています。そうであれば、人間は互いに知ることもできなくなってしまいます。人と人との関係も病んでしまいます。
 しかしそこで、心を究めるのは「主なるわたしである」と、神が名乗りを上げてくださっています。預言者エレミヤは、自身も病む者のようにして主に祈りました。「主よ、あなたがいやしてくださるならわたしはいやされます。あなたが救ってくださるならわたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます」(エレミヤ17・14)。絶望という罪の病に囚われた人間には、救う力はありません。救いはただ主にあります。
 このエレミヤの預言を成就されたお方が、主とされ、キリスト(メシア)とされたイエスです。十字架の上で神に捨てられるという絶望の極みに身を置き、すべての人の罪のために死に、葬られ、復活させられたイエスこそ、救い主です。主イエスは「わたしである」と語り、いつもわたしたちのささげる礼拝のただ中にいてくださるのです。

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