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2017年7月1日発行 No589
愛に生きるために、祈る
金田 佐久子
互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ 13・34)
ある牧師研修会で、休憩中お茶を飲みながら、お互いに近況など他愛ないお話をしていたときのことです。ある牧師からこんなお話しを聞きました。「同じ市内の教会がやる気を出したようだ。玄関前が草ぼうぼうだったのに、きれいになって、お花のプランターも置いて、外の掲示板も塗り替えてきれいになった。どうしてそうなったかというと、新しい牧師が来て変えていった。だんだん人が集まっているようだ」と。
わたしは興味深く聞きました。 「教会のやる気」とは言い得て妙です。教会の内側の状況がある程度外から見てわかるということです。このお話の教会も牧師が来られるまでは、恐らく外見に心を配る余裕がない状況にあったのでしょう。
「どなたも礼拝にいらしてください」とどの教会も言うでしょう。けれども言っていることと、実際にしていることに大きく隔たりがあったら、誠実ではありません。それによって、かえって教会から人を遠ざけていることがないかと、考えさせられ、自らを省みました。
それは教会の外見だけでなく建物や設備も、あるいは印刷物やホームページでもそうでしょう。教会の活動もそうでしょう。もし教会生活を長く続けている人にしか通じない言葉で牧師が説教していたら、どうなのでしょう。教会の敷居は低くはならないのではないでしょうか。
聖書や教会にそれほど詳しくない人でも「神は愛である」とか「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とか「敵を愛しなさい」という聖書の言葉を知っているのではないかと思います。そのような人が、神を求めて、聖書の言葉をもっと知りたいと願って礼拝に来たとき、その教会の人が、互いに誰かの悪口を言っていたり、約束を守らないでいたりしているのを見たら、失望させてしまうのではないでしょうか。
では、どうしたら、聖書の言葉に誠実に生きることができるのでしょうか。冒頭にあるように「互いに愛し合え」と、主イエスは弟子たちにお命じになりました。どうしたらその愛に生きられるのでしょうか。それは自然のままの人間にはできません。祈りが必要です。神に心を開いて、聖書の言葉を、神に語りかけられた愛の言葉として受け取るときに、その愛に生きる願いと力を受けることができます。それが祈りです。
泳ぎについていくら講義を受けても、実際に水の中に入って泳いでみなければ、泳ぎは身につきません。そして繰り返し練習します。祈りもそれと似ています。祈りについて講義を受けても、自ら祈らなければ祈りは身につきません。今月の8日・9日に第42回西川口教会アシュラムを開催します。アシュラムという集会の目的は「今、ここ」でわたしに与えられた御言葉を聴き、祈ることを経験することにあります。祈りは神との交わりです。祈る人になりましょう。
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