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2017年8月1日発行 No590 

わたしたちの課題

                            金田 佐久子
 
「日本のキリスト者青年が直面している課題」を述べている、東京神学大学教授の小泉健先生の文章を読みました。7月の主日礼拝の説教で引用しましたが、キリスト者青年だけでなく、日本の教会に生きるわたしたちにとっても同じ課題ですので、改めてここに書いておきます。

 “日本の社会は強い自己主張を嫌います。「はい」か「いいえ」か、好きか嫌いか、どうしたいかをはっきり言うことは望まれないのです。だから日本人は子供のころから相手は何を望んでいるか、周りはどういう考えなのかを探り知り、それに合わせようとします。周りの人たちの意向をくみ取ることを「空気を読む」と言います。空気を読めない人はダメな人だと見なされます。日本社会では空気を読むことが強制されるし、「空気」がたいへん大きな力をふるうのです。
 日本人は古代から「和をもって貴しとなす」ことを大事にしてきました。ここでの「和」は、聖書が語る「平和」ではありません。主イエスが与えてくださる「和解」ではありません。全体の「空気」に合わせて、空気が穏やかなままであるようにすることです。「空気」が大切ですから、言葉は重んじられません。言葉を交わすことでお互いの違いを知り、違いを受け入れ合い、そのうえで平和を築いていくのとは違うのです。空気に合わない異質な人たちは、初めから排除されてしまいます。”

 小泉先生は、こう述べた後に、日本ではキリスト者の数が圧倒的に少なく(人口の0.8%)、そして異質な人を排除する傾向があるために、信仰が心の中だけのことになり、「キリスト者の自分」は教会の中だけ、家の中だけで、学校や職場など社会では「日本人としての自分」が生きることになってしまう、と指摘しておられます。
 「空気を読む」というのを、「みんながそうしている」とか「みんなが言っている」と言い換えてもいいでしょう。自分をみんなに合わせていく、あるいは他者に同じ考え方を求めていくという価値観がこの国の社会を支配しているし、もしかすると教会もその価値観に支配されかねないと思うのです。その価値観に流されるならば、言葉を重んじることがなくなり、お互いの違いを受け入れ合うこともなくなります。それでは教会ではなくなってしまいます。
 ローマの信徒への手紙第12章2節にこうあります。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。つまり、みんながしているからとか、みんなが言っているからというように、世の中に倣うということがあってはならない。そうではなく、神によって自分を新たにされて、神の御意思を識別できるようになれ、と語られています。続けて「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」(ローマ12・4〜5)とあります。教会はキリストの体、各自は互いに部分ですから、それぞれがその役割を果たして生きるとき、体が生きる。だからこそどの部分も欠けてはならない大切な存在なのです。違う人がいて初めて全体が生かされるのだということを信じます。

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