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2017年9月1日発行 No591
愛の自己吟味
金田 佐久子
この月報に報告がありますが、先月、日本基督教団関東教区埼玉地区教会全体修養会が開催され、わたしも参加することができました。
講師の加藤常昭先生の開会礼拝説教、2回の講演から、多くの気づきを与えられました。さらに講演の後の分団(数名ずつの小グループ)の時間に、各自が講演から気づいたこと、感想や疑問を率直に分かち合うことができ有意義なものでした。
講演で、コリントの信徒への手紙一第13章の「愛の賛歌」と呼ばれる言葉にも触れてくださいました。これは、キリスト者でなくてもご存知の方もあると思います。一部紹介します。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。・・・
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。・・・」(コリント一13:1〜2、4〜8)
コリントの信徒への手紙は、使徒パウロがコリントの町にある教会に宛てて書いたものです。ですから第13章「愛の賛歌」だけを切り取るように読むのではなく、その前後の文脈も大切にしたいと思います。
直前の第12章では、キリスト者には、聖霊からいただくそれぞれの賜物があること、それは聖霊の共同体である教会が一つに生きるためであることが語られます。そのうえですべてのキリスト者に与えられ、もっと大きな賜物である愛を語るのが第13章です。
さらに聖霊の賜物の歌は、それで終わらず、第14章では「愛に生かされる者は預言の言葉を語る」と続きます。預言の言葉とは「通じる言葉」であり、「慰めの言葉」、「教会を造る言葉」です。
加藤先生が講演で、学生の頃の教会のお友だちのことを話してくださいました。そのお友だちは、ここに掲げたこの「愛の賛歌」で、「愛」というところに自分の名前を入れて、「自分はこのような愛に生きていない」と言って深く悲しみ、しばらく教会を休んだことがあったということです。再び礼拝に来られるようになったそうです。
分団で、ある方が感想を述べられました。「毎朝聖書を読んでいるけれども表面的に読んでいた。この箇所ならば『愛とはそういうものか』と読むだけだった。その学生のように真剣に自分のこととして読んでいなかった」と言われ、聞いていたわたしも問われました。愛は具体的なものです。愛がなければ、その言葉は、やかましく騒がしい音でしかないのです。忍耐強くなくなったら、不作法なことをしていたら、妬みや自慢の思いにしばられているなら、愛を失っているのです。
神の前に「愛を失っています。愛に生きておりません」と悔い改めるばかりの者です。神の言葉こそが、愛に生き得ない自分の姿を知らせます。だからこそ神に立ち帰り、罪人を招く主の愛を信じ、「聖霊の賜物である愛に生かしてください」と、日毎新たに祈るほかない者であることを示されます。
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