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2017年10月1日発行 No592 

神の義の発見

                            金田 佐久子
 
 マルティン・ルター(1483〜1546)が、当時の教会の習慣だった「免罪符(贖宥状)」に対する質問状「95箇条の提題」をヴィッテンベルク城教会の扉に貼り付けたとされたのが1517年10月31日。このことがきっかけとなり、プロテスタント教会が生まれました。今年(2017年)は500年の記念の年。ルター始め、彼に続いた改革者たちに倣い、今も教会の改革は続けられています。
 しかしながら、わたし自身日常生活に追われ、教会の歴史を学びその意義を考えるという作業がなかなかできませんでした。せめて記念のこの年は少しでもルターの改革を知ろうと思いました。
 一般向けで読みやすいのは、岩波新書から出ている、徳善義和著「マルティン・ルター―ことばに生きた改革者」です。お勧めします。5月号からのコラムでも参考にしました。
 ここでも徳善先生の著書を参考に、改革の出来事の源となった、ルターの「神の義の発見」の出来事を書きたいと思います。
 修道士であったルターは、大学で神学研究をするように修道院から命じられました。修道生活でルターは内的葛藤を抱えていました。「いかに欠点のない修道士として生きていたにしても、私は、神の前で全く不安な良心をもった罪人であると感じ、私の償いをもって神が満足されるという確信を持つことができなかった」と晩年に書いています。
 ルターは修道会の期待に応えて勉学に励みます。そのルターの神学研究では聖書への集中がありました。「私は若かったから、聖書に慣れ親しもうとした。これをしばしば読み、その本文をわがものとした。するとどの本文も、それ〔キリストへの信頼〕について語られているという文脈にあり、またそう読むべきであると知らされるに至った」と、ルターは当時を振り返っています。
 ルターは神学教授となり、聖書の講義をしていましたが、信仰的にも神学的にも、内的葛藤を持ち続けていました。そのときのルターの言う神とは、自らの意思と能力をもって努力する人間は「正しい」と受け入れてくれる一方、努力を怠る人間には怒りをもって裁きを下す神でした。その神の「正しさ」(義)とは何かという問いがありました。
 1511年、ヴィッテンベルク大学に移ったルターは、最初の講義に詩編を選びました。彼は、詩編第31篇の冒頭に出てくる言葉「あなたの義をもって私を解放してください」に行き詰まりました。神の義(正しさ)を、怒り、裁き、罰で捉えていましたから、解放(救い)との結びつきが理解できなかったからです。やがて講義が詩編第71篇まで進み冒頭の同じ言葉に、ルターは「これは、キリストを明らかに言い表している」と新しく認識することができたのです。神の義は、人間の行いや努力が神に受け入れられるかどうかで明らかになるのではないのです。神の義は、神からの恵みであり、イエス・キリストという贈り物として与えられ、与えられたその人は救われます。だからこそ、聖書は神の義を解放や救いと結びつけて語っているのです。「今まで私が神の義という語を激しく憎んでいただけに、いまやこの語をもっともすばらしいことばとして誇る愛も大きかった」とルターは言いました。神は恐ろしい「裁きの神」ではなく、慈しみ深い「恵みの神」だったのです。
 神に対するこの新しい認識が、以後のルターの神学的な問題を解決する際の基本認識となりました。

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