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2018年2月1日発行 No596 

教会―祈り合うキリストの体

                            金田 佐久子
 
 西川口教会は、日本基督教団関東教区埼玉地区の地域の交わりの中にあります。埼玉地区は成人の日を「地区デー」として、地区の一致と交わりを推進してきました。この日には、埼玉地区新年合同礼拝を行います。「地区デー」献金をささげ、埼玉地区内の教会で講壇交換礼拝をしています。今年度の西川口教会の講壇交換礼拝を1月21日に行い、川越教会の木ノ内一雄先生がいらしてくださいました。同日に、わたしは川越教会に赴き、それぞれ良き交わりを過ごすことができました。
 川越教会での主日礼拝で、エフェソの信徒への手紙第6章18節から24節まで「祈り合うキリストの体」と題して説教しました。
 その説教の一部を、ここで分かち合わせていただきます。
 “今朝わたしは遣わされてきましたが、今日の聖書に、人が送られてくるという箇所があります。
 「わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。」(21、22節)
 この手紙を書いたパウロは、福音のために捕えられて獄中にあります。そこで何をしているか、それをティキコが伝える。その目的はエフェソの教会がパウロの様子を知って、そのことにとって、心に励ましを得るためです。
 講壇交換礼拝はまさにこの言葉のようです。奉仕者が、神に立てられ遣わされ、教会の方たちの心がそれによって励まされ、支えられ、生かされるということ。教会はそのように生きてきたと思います。
 何よりも、獄中にあって、使徒パウロの関心事は教会であった。自分のことよりも、教会が本当に教会として生きていくためには、できることは何でもする。それがパウロの思いであって、そのためにティキコを遣わしたわけです。
 なぜならば、教会というのは、そのままで順調で心配はないという集まりではないからです。地上の教会はいつも誘惑にさらされています。それは、エフェソの信徒への手紙の第6章10節以下を見れば、分かります。教会は悪と戦うのです。教会は油断すれば、悪魔に足元をすくわれかねない。わたしたちもまた、しばしば体験しています。だから使徒パウロは、教会がいつも福音に留まることができるように、ティキコを送るわけです。悪に打ち勝つには、福音の言葉を、神からの慰め・励ましを、絶えず新しく受けること。そのために祈り合うこと。それが教会が生きる道です。
 「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(18節)。
 新共同訳は「“霊”に助けられて」ですが、「霊にあって」という訳もありました。英語では「in Spirit」。祈る者は、聖霊に包まれている。神の霊の中で祈る。祈る者自体が神の霊の中にあることを気づくならば、悪魔は去っていくでしょう。「すべての聖なる者たちのために」祈ります。説教者・伝道者のために祈ります。「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください」(19節)。”

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