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2018年9月1日発行 No603 

まことの豊かさに生きる

                            金田 佐久子

 あなたは、もし今夜、息を引き取ったとしても、満ち足りて人生を終えることができますか。
 主イエスは人々に対して、このようなたとえを語られました。
 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12・15〜21)
 このたとえに登場するお金持ちは、誰もがうらやむ成功者ではないでしょうか。この人の畑が豊作になったとは、この人が努力して、投資して、打ち込んで、満足できる結果を得たということではないでしょうか。収穫が入りきらなくなったから、さらに大きな倉を建てるとは、もっともではないでしょうか。お金持ちは満足しきっています。そして、世の人は「あの人はなんて幸せな人だろう」と言うでしょう。
 しかし、この人は神の目から見たら「愚かな者」でした。「今夜、お前の命は取り上げられる」と神は言われたのです。何年も生きられる蓄えがあったとしても、それができる人が生きている間だけ意味があることです。主イエスは「人の命は財産によってどうすることもできない」から、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と語り、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われました。
 神の前に豊かになる生き方があるというのです。それは貪欲とは両立できないのです。自分のために富を積むか、神の前に豊かになるか、どちらかなのです。まことに豊かに生きる命は神の前にあるのです。自分の死を忘れて、神の前に立つこともわきまえないで、欲望に振り回され、腹を立てたり、悲しんだり、争ったりする、そのような生き方から解放されるのです。
 命の源は神です。神が命を与えられたから、わたしたちは生きています。貪欲の罪に捕らわれているわたしたちに、神は主イエスを通して、罪の赦しと永遠の命を与えて、まことの豊かな命に生かそうと招いておられます。生きるも死ぬも神にお任せして、与えられた命を喜び、いつでも死に備えて生きることができるのです。

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