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2018年11月1日発行 No605 

主よ、あなたはわたしの命

                            金田 佐久子

 今年もオリーブの里アシュラムに参加しました(9月26日〜28日)。近江八幡市のアシュラムセンター主催で、ご指導はアシュラムセンター主幹牧師の榎本恵先生、主題聖句は「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳聖書 伝道の書 第3章11節)でした(「伝道の書」は新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」)。榎本先生が「キリスト教主義学校の学生にどの聖書が好きかと質問すると『コヘレトの言葉』をあげる学生が多く、人気があるのだ」と言っておられました。何となく分かる気がしました。
冒頭でコヘレトはこのように呼ばわります。「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」(第1章2節)。
 このような言葉に若い人たちが共感し、引きつけられているというのです。若者ばかりではなく、わたしたちが人生で感じる空しさ、はかなさ、徒労感や虚無感とコヘレトの言葉は響き合う思いがします。
 コヘレトの言葉で興味深いのは、再三再四「空しさ」を語りながら、決して生きることや人間存在そのものを否定していないことです。なすべき業を重んじ、飲み食いの喜びを積極的に語ります。逆の発想です。空しいから意味がないのではなく、空しいからこそ意味があり、今を十分に生きるように促し、神にまなざしを向けているのです。
「わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と
人だれもが飲み食いし 
その労苦によって満足するのは 
神の賜物だ、と」
(第3章12〜14節)。
 神に造られたものとしての分をわきまえるコヘレトです。
 第3章15節には「今あることは既にあったこと これからあることも既にあったこと」と続くのですが、そこは「いいえ、そうではなかったのですよ」との思いで読みました。アシュラムでは、キリストの光を通してコヘレトの言葉を見ることを示されました。「これからあることも既にあったこと」と思われるところで、人が思い及ばなかった救いの出来事が起こりました。キリストは「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(ヘブライ9・26)。ただ一つの救いは成し遂げられ、キリストは全人類の救いとなられました。
 キリストの救いにあずかったわたしたちは、「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(コリント一10・31)とあるように、主なる神のために食べ、飲み、感謝して生きるようにされました。
 秋から朝の祈りに「祈る パウロとカルヴァンとともに」(R・ボーレン著)を少しずつ読み、祈りを教わっています。「命」と題する祈りをうれしく読み、声を合わせました。このような祈りです。
「あなたは 呼ばれた、主よ、道楽者と、飲み食いをおそらく好まれた、おそらく喜んで パーティの招きに応じられた。
 後ろ指を差す者たちは 大食らいの 大酒飲みと陰口をたたいた。
 カナであなたは命じて、水を 洗浄用の甕に注がせた、洗濯を命じたのではない、それどころか500から600リットルもの最上の酒を 祭りの客へ振る舞うようにと。
 それほどにあなたは気前よくあられた。死を知らぬ道楽者よ、今日もまた気前よく あなたは私の命であられ 私はあなたの命を楽しく生きている。」

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