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2019年1月1日発行 No607
愛に生きるとは、互いに重荷を担うこと
金田 佐久子
主の年2019年を迎えました。主の恵みと平和がこの年も皆様に豊かにありますように。主のお守りと慰め、励ましが、ふさわしく与えられますように。
今年の西川口教会の御言葉はガラテヤの信徒への手紙第6章2節です。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。合わせて、同じくガラテヤの信徒への手紙第5章14節もご紹介します。「
律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。2018年度の西川口教会の主題は「一人ひとりが祈る人―聖霊による愛と赦しの教会」です。愛を追い求めて生きることは常に変わらぬ目標です。今年は与えられた御言葉を通して、愛に生きるとは、互いに重荷を担うところにあることをかみしめて歩みたいと、祈り願っています。
ちなみに「愛」を手元にあります「新明解国語辞典」で引いてみました。こうありました。
個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと願う、人間に本来備わっているととらえられる心情。
用例として、
「親子の愛」(子が親を慕い、親が子を自己の分身として慈しむ自然の気持ち)
「自然への愛」(一度失ったら再び取り返すことの出来ない自然をいたずらに損なわないように注意する心構え)
「学問への愛」(学問を価値あるものと認め、自分も何らかの寄与をしたいという願望)
などありました。
辞典にありました「愛」についての言葉を読んだとき「もっともな言葉。これを真っ向から否定する人はいないだろう」と思いました。けれども一方で、「『人間に本来備わっている心情』とあるけれども、そのように皆が生きているか。わたしは生きているか。そうではなくて、この愛が破れてしまっている現実があるのではないか、親子の間でも、自然と人間との間でも、学問の世界においても、失われているのではないか」と思いました。辞典の例のように、親が子を愛し、子が親を愛し、人間が自然を愛し、また学問を愛するわけです。愛は対象があります。愛する者があり、愛される存在があります。愛は、関係の中に交わされるものなのです。その愛が問われていると思います。
今年の御言葉によれば、愛は互いに重荷を担うところにあるのです。自分がしたいことや、自分に都合のいいことや、自分が良かれと思うことをするのではなく、キリストの体である教会を造る一人ひとりが、互いに重荷を負う。人に喜んでもらえることばかりではないかもしれません。黙って他者の重荷を担う。それは、キリストが自ら進んでわたしの罪の重荷を負ってくださっている、罪人のわたしを丸ごと担っていてくださると信じるとき可能となります。
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