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2019年3月1日発行 No.609 

レント(受難節)にあたり

                            金田 佐久子

 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。(ローマ11・29)

 教会の祈祷会では、昨年の8月22日から創世記を学び始め、先日、創世記の後半部となる第12章に入りました。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと続く、イスラエルの父祖たちの物語が始まります。とても楽しみにしています。父祖たちが信仰に堅く立つこともあれば、自己保身のため身近な人を裏切る、また裏切られることもあり、人間というもの、人間関係というものが生き生きと描かれています。さらにそのような彼らを訪れ、選び、祝福に招き、共に生き、関わり続ける神のお姿を見ることができます。創世記は本当に面白い! 神と彼らとの関わりを知ることは、神とわたしたちとの関わりを知ることでもあります。
 アブラハムの物語をたどる時にいつも思い出されるのは、森有正(哲学者・フランス文学者。故人)の言葉です。説教塾で加藤常昭先生が折に触れてご紹介され、わたしも心に留めています。こういう言葉です。
 “人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。・・・人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。
 例えば、アブラハムとイサクとの関係にしましても、アブラハムとサライの関係にしましても、・・・非情な物語でありまして・・・けれども実は、そういう中を通して、神様のアブラハムに対する召しというものはだんだん明らかになってくる。決してある神学的な教条や経典やまた思想体系の中で人間は神様に会うことはできない。・・・人の前でいくら隠しても、それは自分そのものですからそれを自分は忘れることはできない。しかし、そこで私どもは神様にお会いする。そこで、神様にお会いし名前を呼ぶということは、同時に自分の道を発見することと一つにつながっている。”(森有正著「土の器に」所収「アブラハムの信仰」)

 今年の復活日(イースター)は、4月21日です。復活日に先立つ40日間(日曜日は数えない)はレント(受難節)と呼ばれます。レントは灰の水曜日から始まり、今年は3月6日になります。教会の歴史においてレントは復活祭を目指す準備の期間でした。洗礼の準備をし、また悔い改めに生きるよう奨励されました。主イエスが福音宣教の活動をお始めになる前、荒れ野に退いて40日間断食して祈られたことに倣っているもので、教会の伝統では断食・節制が行われてきました。
 西川口教会では、灰の水曜日に特別な行事をすることはありませんが、教会の伝統を大切にしましょう。洗礼者が与えられるように祈ります。わたしたちが人には隠している思い、自分の気づかない自分までご存じで、わたしたちに出会ってくださった主イエスを仰ぎ、主の御名を呼びます。すべての人の救いとなるため十字架へと歩まれた主イエス・キリスト。その受難と死を思い起こします。レントの時、主なる神に立ち帰って生きられますようにと心から祈ります。

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