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2019年11月1日発行 No.617 

一粒の麦

                            金田 佐久子
 
 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12・24)

 西川口教会では、毎年、11月の最初の日曜日に、神のみもとに召された方を記念する召天者記念合同礼拝をささげています。
 冒頭の聖書の言葉は主イエス・キリストが語られた言葉です。キリストご自身が一粒の麦となられ、救いの道を開いてくださいました。キリストご自身が救いであり、道です。
 このキリストの救いにあずかった人には、人生の歩みにおいて、その人にとっての一粒の麦のような人がいると思います。それは、家族であったり、友であったり、信仰の先輩であったり、思いがけなく出会った人であることもあります。
 わたしが幼いころ、西川口教会の教会学校に通うように導かれたのは、同居していた祖父の死がきっかけでした。わたしには祖父の記憶はないのですが、1歳年上の姉は覚えているそうです。祖父の死と葬儀を見て、姉は母に尋ねました。「人はなぜ死ぬの」。母はどう言っていいのかわからず「人が死なないと、地上が人でいっぱいになってしまうから」とごまかして答えました。その頃、郵便受けに西川口教会のチラシが入っていて、キリスト者であった母は、子供たちを教会学校に送り出すことにしました。母は姉の先の問いに明確に答えられなかったので、「子供たちを教会に行かせていればどうにかなると考えた」そうです。そういうわけで、わたしは4歳頃から、姉と妹と一緒に、西川口教会の教会学校へ行くようになりました。
 10数年が過ぎて、1981年のクリスマスに洗礼を受けました。振り返ってみると、わたしが受洗を決意するに至ったのは、祖母の死が影響したと思っています。わたしが中学2年生のとき、洗礼の1年前の秋に、両親は母方の祖母を我が家に引き取り、病気であった祖母はその年末に亡くなりました。優しかった祖母が小さくなって変わり果てて死んでしまい、死への恐れがわたしの心の片隅を占めていました。そのときには自らの心を知ることができませんでしたが、福音を信じて救われた今、死の恐れからの救いを求めていたのだと分かります。
 そして、1996年の母の突然の死によって、心に穴が開いたように不安になり弱くなりました。しかしそれがきっかけで献身へと導かれました。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(コリント二 4・14)の御言葉によって復活の希望が明確になりました。母の死を通して、主なる神はいのちの源であると心から信じることができました。
一粒の麦となってくださったキリスト。わたしにとって祖父、祖母、母もまた一粒の麦です。その死を空しくすることなく、主なる神に愛され、赦され、生かされていることを感謝して、これからも歩みます。

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