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2019年12月1日発行 No.618
クリスマス-神の御子キリストの派遣
金田 佐久子
先日、わたしはある伝道団体の機関紙に次のようなエッセイを書きました。タイトルは、「『べきおばけ』に苦しんでいませんか?」
“今年8月、NHKテレビの「クローズアップ現代『ひきこもり』特集」で、「〜すべき」という世間の「空気」や「常識」が強迫観念になり、ひきこもりの当事者を苦しめていることが紹介されました。番組ではこの強迫観念を「べきおばけ」と名付け、オバケのイラストで可視化されていました。「正社員としてきちんと働くべき」「結婚して子供を産むべき」「仲間とは一緒に盛り上がるべき」などです。その後、ネットニュースで、子育て中の母親からの声が寄せられたことを知りました。「良妻賢母であるべき」「3歳までは母親が子育てするべき」「子供の前では笑顔でいるべき」など。それを読んで「もしかしたら、教会にも『べきおばけ』が入り込んでいるかもしれないな」と思いました。「牧師はこうあるべき」「信徒はこうあるべき」「礼拝はこうあるべき」「会堂はこうあるべき」。あなたの教会は、あなたはどうですか?”
新約聖書のガラテヤの信徒への手紙第4章4節・5節にこうあります。
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。
神の御子、救い主キリストがお生まれになったのは、律法の支配下にある者を贖い出して、すべての人を神の子とするためでした。律法の支配下とは、先ほどのエッセイにあるように、「〜であるべきだ」、「〜ねばならない」がいつも頭の中に駆け巡っていて、常に言っているようなものです。
「律法」とは本来、神の民が神様から「こう生きなさい」と与えられ、生活の定めとしたものです。このガラテヤの手紙を書いた使徒パウロという人は、律法を守ることに熱心で、律法に背くようなことは決してしませんでした。そのパウロが「イエスこそ救い主である」と信じる弟子たち(教会)をつぶして、殺してしまおうという思いにまでなりました。律法に一所懸命に生きているとき、「『わたしが』律法を守った。この『わたしを』神が義となさるのは当然だ」と思い、律法に従えない者を裁き、殺してもいいとさえ考えたのです。そこでは自分が主人公になっている。先ほどのエッセイで言うと、他者を「べきおばけ」で苦しめていながら気がついていないのです。
昔も今も人間が「自分は正しい。自分は間違っていない」と思い込み、世界の主人公となっているがゆえに、家庭でも学校でも国と国の間でも、いろいろな問題が起こっています。神はそのような人間を放ってはおかれません。神は、御子を律法の下に生まれた者として派遣された。それは律法の支配下にがんじがらめになっている人間と同じ立場に救い主を置かれたということ。わたしたちを御子によって救い、神の子の自由を得させるためでした。ハレルヤ。
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