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2020年3月1日発行 No.621
贖(あがな)い―神は「親戚」
金田 佐久子
わたしはあなたの背きを雲のように
罪を霧のように吹き払った。
わたしに立ち帰れ、
わたしはあなたを贖った。(イザヤ44・22)
今年は、2月26日からレント(受難節)に入りました。救い主イエス・キリストの受難と十字架の死、復活の出来事を深く思い起こします。4月12日のイースター(復活日)に向かって日々歩みます。
西川口教会の屋根には、十字架を高く掲げています。礼拝堂正面の壁にも十字架があります。教会はこの十字架のもとで、礼拝をささげています。掲げられている十字架は、イエス・キリストが十字架にはりつけにされたしるしです。
イエス・キリストは、なぜ十字架におかかりになったのでしょう。それは、私たち人間が主イエスを十字架に追いやらずにおれないほどに罪深い存在だからです。同時に、イエスは十字架から逃げずに、十字架から降りずに、命をささげくださったからです。こうして主イエス・キリストは、私たち人間を十字架によって罪と死から贖い、罪の赦しと永遠の命を与えてくださいました。
この「贖う」という言葉は、旧約聖書に由来しています。もともとは、「買い戻す」という意味で、レビ記第25章でも用いられています。
「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。・・・もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない」(レビ25・23、25)。
「あなたの同胞が貧しくなって、あなたのもとに住む寄留者ないしはその家族の者に身売りしたときは、・・・その人の兄弟はだれでもその人を買い戻すことができる。・・・その人の一族の血縁の者も買い戻すことができる。・・・
イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ25・47〜49、55)。
太字で示したように、イスラエルの人々は主なる神のもの、土地も神のものということです。土地も人も最終的な所有権者は神であられるところに、このレビ記の規定の根拠があります。ですから土地を手放したり、自分の身を売って人の奴隷になったりすることは、本来あるべき社会が損なわれているのです。人が人を所有することはできないし、他人の土地を奪うことはできません。神は、損なわれた社会を本来あるべき社会に回復できるよう、この「買い戻しの権利」を定められました。
この「買い戻す」と訳される言葉が「贖う」とも訳されているのです。「神はこの私を贖われる」とは、神が、私たち人間にとって、買い戻す義務を負う「親戚」でいてくださるということです。この「贖う」がひんぱんに出てくるのはイザヤ書です。冒頭の御言葉のとおり、「あなたの背きや罪を吹き払った」とは、神は、神の民が立ち帰るより先に、罪を赦しておられます。だから「わたしのもとに立ち帰れ」と、呼びかけておられます。私たち人間の親戚であられる神は、十字架の上で今も「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」と呼びかけておられます。
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