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2020年8月1日発行 No.626 

神の安息にあずかり、憩う

                            金田 佐久子

 神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。(ヘブライ4・10)

 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、約2か月、礼拝堂での礼拝を休みましたが、6月7日から再開することができました。7月12日から夕拝も再開しました。新型ウイルスの感染が収束するまで、感染防止に努める必要があり、再開した礼拝は順序を短くして、45分間としました。礼拝後の飲食はせず、それ以外の集会はお休みしています。夕拝は、朝の礼拝と全く同じ礼拝順序、内容で行っていますので、分散して礼拝ができます。朝の礼拝に出席できなかった人のためにも、夕拝が用いられることを願っています。
 こうして、今年の春からの新型ウイルスの感染と拡大という想定外の事態によって、教会の活動については、今までのやり方にこだわってはいられず、思い切った変更をしなければならなくなりました。
 一方、これほどまでの事態が起こったからこそ、大胆な変更ができたとも言えます。活動をそぎ落としていかねばならない中、教会が教会であるためになくてならないことは主日礼拝であるという、当然のことに行きついた思いがします。
 新型ウイルスの感染症は、基礎疾患のある人、高齢者は重症化しやすいと言われています。芸能人やスポーツ関係の人が新型ウイルスに感染して重症化したり、あっという間に亡くなったりしたなどの報道を聞くと、心が騒ぎ、不安になることがありました。それは私だけではなく、見えない新型ウイルスの恐ろしさを感じている人は多いのではないでしょうか。その不安が高じて、感染者や医療従事者などへの差別や偏見まで起こり、憂慮すべきことになっています。差別や偏見の根源は不安や恐れでしょう。死が身近に迫っていることに気づかされてしまったのかもしれません。
 その死の不安を克服する道はどこにあるのでしょうか。不安の反対は平安です。この不安と向かい合い、死がもたらす不安に勝つ平安こそ必要です。人は皆、心の奥底には、確かな平安に生かされたいという切実な願いがあります。その確かな平安をどこに見いだすことができるのでしょうか。
 教会こそ、確かな平安を告げることが許されているし、平安を告げるべきであると信じます。それには、まず私たちキリスト者が神を礼拝し、神の言葉を聴くことにおいて、その平安に生かされ、その平安を主の日の礼拝を通して、さらに、それぞれの生きている場所で、告げ知らせ、証しすることだと思います。
 ヘブライ人への手紙は、創世記が語る出来事を振り返っています。神は天地万物を創造し、すべての御業を終えられ、7日目に休まれたのです。主なる神がこの7日目を安息の日とされ、祝福なさいました。神の安息は、祝福の安息であり、この祝福の安息にあずかるからこそ、憩うことができます。この祝福において、造られたものがそれぞれに、そして共に生かされます。それは、天地創造の秩序にあずかることです。神が造られ、喜ばれ、祝福された世界はいのちが輝き、死の不安はありません。キリストにある救いは、この創造の秩序への回復なのです。主日礼拝はこの安息の日の祝福への招きであり、それこそ良き知らせ(福音)です。

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