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2020年9月1日発行 No.627 

祝福を信じて

                            金田 佐久子

 この方(イエス)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。(ヘブライ7・25)

 最近読んだ「生きる力 森田正馬の15の提言」(帚木蓬生著)の中に、心に留まったエピソードがありました。一部引用します。
 “…米国の有名大学では名物教授による名講義が盛んで…なかでも出色なのがコロンビア大学の盲目の女性、シーナ・アイエンガー教授でしょう。彼女の授業の主題は〈選択〉です。
たとえば聴講している学生たちに、一つの理想的な生活を提示します。住むのは一流ホテルで、広くて豪華バーのカウンターも完備している部屋です。ルーフバルコニーにはプールもありルームサービスでシャンパンやワイン、どんな料理でも注文できます。…学生たちは、そんな夢のような生活を想像して顔を輝かせます。
 そこで教授は受講生たちに言います。享楽の限りを尽くせるホテルの生活ですけれど、ただ一つ条件があります。一生、この部屋からは出られないという条件です。さて、こんな生活をしたい人は手を挙げてください。
 教授は見えない目で教室内を見据え、耳を澄まします。しかし誰ひとりとして手を上げる気配はありません。うんざりした顔でかぶりを振るのです。幸福そうな生活でありながらも、実際は不幸だと、全員が気がついたのでしょう。
 このように一点の曇りもないような幸福も、ひと皮むけば不幸なのです。…”
 私も同じように反応しました。そして、教授からの問いが投げかけられて気づいたのは、部屋を出入りできる自由があると、当然のように思っていたことです。このエピソードは、何が幸福で何が不幸なのか読者に考えさせるためにありましたが、私が特に強く反応したのは、今年の春から続き、まだ終わらないコロナ禍の日々の中、外出や移動に自ら制限を課しているためではないか、と自己分析しました。
 幸福も不幸も背中合わせ、不自由の中にも幸福はあり、他者から何不自由なく暮らしているように見える人も、心の中では不幸を嘆いているかもしれません。人の心の動きは実のところそういうものでしょう。
 キリストの教会で過ごすようになると「祝福」という言葉を聞くようになります。幸福と似ているのかと思いますが、幸福というのは先に書いたように、状況に左右され得るものです。けれども聖書が告げる祝福は次元が違います。「あなた」そして「わたし」、また「私たち」という「存在そのもの」が神の祝福の中に置かれるのです。聖書に記されている祝福は神が宣言しておられるもので、神が宣言をされたら、すでにそこに祝福があるのです。その祝福は揺るがないのです。教会や牧師に神秘的な力があるのではなくて、教会は神の祝福を告げる存在として生かされていて、牧師は祝福を告げる務めを負っています。
 救い主イエス・キリストは天の神の右の座で私たちのために絶えず神に執り成していてくださいます。私たちは、どんなことがあっても呪われた存在ではなく、いつも神の前に執り成されているという祝福を信じることができる。その確信を持って神に近づくことが許されている。イエスは常に生きておられるので、この祝福は永遠の祝福なのです。


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